「平安京物語」8“征夷大将軍坂上 田村麻呂”(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の武官。名は田村麿とも書く。正三位、大納言兼右近衛大将兵部卿

坂上2
坂上1
「平安京物語」8“征夷大将軍坂上 田村麻呂”(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の武官。名は田村麿とも書く。正三位、大納言兼右近衛大将兵部卿。勲二等。死後従二位を贈られた。天平宝字2年(758年)に坂上苅田麻呂の次男[4]または三男[5]として生まれた。田村麻呂は近衛府に勤仕した。田村麻呂が若年の頃から陸奥国では蝦夷との戦争が激化しており(蝦夷征討)、延暦8年(789年)には紀古佐美の率いる官軍が阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗した。田村麻呂はその次の征討軍の準備に加わり、延暦11年(792年)に大伴弟麻呂を補佐する征東副使に任じられ、翌延暦12年(793年)に軍を進発させた。この戦役については『類聚国史』に「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」とだけあり、田村麻呂は4人の副使(副将軍)の1人ながら中心的な役割を果たしたとされる。延暦15年(796年)には陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任して戦争正面を指揮する官職を全て合わせ、加えて翌延暦16年(797年)には桓武天皇により征夷大将軍に任じられた。延暦20年(801年)に遠征に出て成功を収め、夷賊(蝦夷)の討伏を報じた。いったん帰京してから翌21年(802年)、確保した地域に胆沢城を築くために陸奥に戻り、そこで阿弖流為と盤具公母礼ら500余人の降伏を容れた。田村麻呂は彼らの助命を嘆願したが、京の貴族は反対し、2人を処刑した。延暦22年(803年)には志波城を造った。延暦23年(804年)に再び征夷大将軍に任命され、3度目の遠征を期した。しかし、藤原緒嗣が「軍事と造作が民の負担になっている」と論じ、桓武天皇がこの意見を認めたため、征夷は中止になった(徳政相論)。田村麻呂は活躍の機会を失ったが、本来は臨時職である征夷大将軍の称号をこの後も身に帯び続けた。桓武天皇崩御後、戦功によって昇進し、延暦24年(805年)には参議に列し、翌年の大同元年(806年)に中納言、弘仁元年(810年)に大納言になった。この間、大同2年(807年)には右近衛大将に任じられた。また、田村麻呂は京都の清水寺を創建したと伝えられ、史実と考えられているが、詳しい事情は様々な伝説があって定かでない。他には大同元年に即位した平城天皇の命により富士山本宮浅間大社を創建している。大同4年(809年)に平城天皇が弟の嵯峨天皇へ譲位した後に2人が対立した際、田村麻呂は平城上皇によって平城遷都のための造宮使に任じられた。しかし翌大同5年(弘仁に改元)に発生した薬子の変では嵯峨天皇側に付き、子の広野は近江国の関を封鎖するために派遣され、田村麻呂は美濃道を通って上皇を邀撃する任を与えられた。この時上皇側と疑われ身柄を拘束されていた元同僚の文室綿麻呂を伴うことを願い、許された。平城京から出発した上皇は東国に出て兵を募る予定だったが、嵯峨天皇側の迅速な対応により大和国添上郡越田村で進路を遮られたことを知り、平城京に戻って出家した。上皇の側近の藤原仲成・薬子兄妹も天皇側に処刑、または自殺したことにより対立は天皇の勝利に終わった。晩年、変から翌年の弘仁2年(811年)1月17日に田村麻呂は外孫の葛井親王(平城上皇と嵯峨天皇の異母弟で桓武天皇と娘の春子所生の皇子)の射芸を見物、3日後の20日に中納言藤原葛野麻呂や参議菅野真道らと共に、前年暮より入京していた渤海国の使者を朝集院に招き宴を張る任に当たったという。これが現存資料のうち、田村麻呂生前の公的記録として最後とされる。同年5月23日、54歳で病死した。嵯峨天皇は死を悼み「事を視ざること一日」と喪に服し、一日政務をとらず田村麻呂の業績をたたえる漢詩を作った。死後従二位を贈られた。同日、葬儀が営まれ山城国宇治郡来栖村に葬られた。その際に勅があり「甲冑・兵仗・剣・鉾・弓箭・糠・塩を調へ備へて、合葬せしめ、城の東に向けひつぎを立つ」ように死後も平安京を守護するように埋葬されたという。墓所は現在は京都市山科区の西野山古墓と推定されている。

『浪速史跡めぐり』興徳寺・JR玉造駅から西へ、真田山の上町台地の丘陵の一角に寺院の多い中古風なたたずまい山門をくぐると、本堂の前

こ興徳寺3
『浪速史跡めぐり』興徳寺・JR玉造駅から西へ、真田山の上町台地の丘陵の一角に寺院の多い中古風なたたずまい山門をくぐると、本堂の前にはきれいに整備された庭園に植木に木々が多い繁り大きな鯉ゆったりと泳いでいる。都会の雑踏の道を少し隔てただけで静寂があるものだ。創建が聖徳太子といわれ、法円坂の「薬師院」として創建されたが、その後行基菩薩によって再建された機内四十九ケ寺の一つである。行基菩薩が原野を拓かんとして、この地で薬師如来を発掘して、別に木造を刻みこれを本尊とした。この辺りの寺は大坂夏の陣に戦火に会い、夏の陣以後、松平忠明が大坂の町の発展と城の防衛線の再整備のために、市内に分散されていた寺院を、小橋村、天満村、東西高津村の三カ所に集め、小橋村に寺号を「興徳寺」と改められて再建されたと言う。戦前までは大阪市内のお大師参りで賑わいを見せていたが、その後太平洋戦争で本堂を焼失し空襲で山門以外諸堂を焼失した。現在の堂塔は、檀家の浄財で今日の堂塔になったそうである。境内には北に大きな金銅の観音立像が祀られ、所狭しと諸仏がお堂に安置されている。

「一ノ宮巡り」播磨国一ノ宮・伊和神社・祭神大己貴神・庫県宍粟市一宮町須行名407・式内社・旧国弊中社・兵庫県は宍粟市ある播磨国一宮伊和神社

い伊和神社5 (1)
い伊和神社7
「一ノ宮巡り」播磨国一ノ宮・伊和神社・祭神大己貴神・庫県宍粟市一宮町須行名407・式内社・旧国弊中社・兵庫県は宍粟市ある播磨国一宮伊和神社の主祭神は大己貴神である。播磨の神と大己貴神とは同一神と見なせる。配神に少彦名神・下照姫神で主祭神の大己貴神は出雲国から来たと言う。「伊和」の語源については「神酒」から或いは「於和」の国造りが終わったと言う意味からと言われている。創建については欽明天皇の御世の創建と伝える。『延喜式』には「伊和坐大名持魂神社」とあり、正暦二年(991)正一位の神階に叙せられている。播磨国一ノ宮とされ、幾度か火災に見舞われ焼失の度に朝廷に国司、守護職赤松氏、近隣の藩主などの庇護を受けて再建された。また地元の豪族に伊和恒郷に大己貴神から「我れ祀れ」の神託が有った。恒郷は西の野で一夜に木々が群生し。大きな白鶴が二羽が石の上に北向きに眠っていたのを見て、そこに北向きの社殿を造営した。鶴石は本殿裏に祀られた。
★この社の祭神は大己貴神、配神は少彦名神・下照姫神は『古事記』ではこの様に記されている。
大己貴神は諸国を平定国造りしていた所、波間に天の船に乗り、蛾の皮の被服を着て近づく小さな神がいた。名も聞いても答えず、諸神に聞いても分らず、ヒキガエルが案山子に聞けば知っている。そこで案山子に聞くと「神産巣日神の御子の少名毗古那神(古事記)と分かった」そこで大己貴神が神産巣日神に質すと、確かに自分の子で手からこぼれ落ちた子であると言う。
そこで大己貴神と兄弟の契りを結んで国を造り固めよと言った。そこで少彦名神も一緒に国造りを助けたが、少彦名神は途中で常世の世界に行ってしまった。そこで大己貴神は最後まで国造りを終えた時に天津神の天孫から国を譲るように求められた。
国譲りに応じて条件として「我が住むところに、皇孫の住処のように太く深い柱で、千木が空高くまで届くような立派な宮殿を造り頂ければ、そこにお隠れしよう」これに従い出雲の「多芸志の浜」に天之御舎を造った。
★祭神の大己貴命は『古事記』に出てくる大己(おおなむ)貴(ぢ)命は多くの名前を持つ大国主神の事で・大穴牟遅(おおなむぢ)神・大穴基持(おおあなもとも)神・大汝(おほなむち)命・大名持(おおなもち)神・八千代(やちよほこ)神・葦原醜男・葦原色許男(あしはらしこを)神・大物(おおもの)主(ぬし)神・大国(おおくに)魂(たま)大神・伊和(いわ)大神(おおかみ)・杵築(きつき)大神(おおかみ)などがある。




「西国四十九薬師巡り」大覚寺・京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。 本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。

だ大覚寺I
「西国四十九薬師巡り」大覚寺・京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。
本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。
嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。
また、嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺でもある。嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。
嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。
嵯峨天皇が崩御してから三十数年後の貞観十八年(876年)、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。
鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったため嵯峨御所とも呼ばれた。
なかでも、後宇多法皇は伽藍の整備に力を尽くしたため、「中興の祖」と称されている。亀山法皇・後宇多法皇の系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた。
だ大覚寺E

『戦国時代の群像』171(全192回) 島津忠恒(1576~1638) 島津家久・安土桃山時代の武将、江戸時代の外様大名

島津4
島図2
『戦国時代の群像』171(全192回)
島津忠恒(1576~1638) 島津家久・安土桃山時代の武将、江戸時代の外様大名。初代薩摩藩主。通称又八郎。『絵本太閤記』には島津亦七郎忠常とある。戦国大名として島津氏を成長させた島津貴久の孫にあたり、島津義弘の子で、最初の妻の亀寿は兄から引き継いだ島津義久の娘。後に家久(いえひさ)と改名するが、同名の叔父が存在する区別のために初名の忠恒で呼ばれることが多い。天正4年(1576年)11月7日、島津義弘の三男として生まれた。伯父島津義久に男児がなかったために島津家は父義弘が継いだが、長男が夭折、文禄2年(1593年)、次兄島津久保が朝鮮で病いにより陣没したため、又八郎が豊臣秀吉の指名により後継者と定められた。後継者となる前は、蹴鞠と酒色に溺れる日々を送っており、朝鮮出兵中の義弘から書状で注意を受けていた。しかし、後継者になると父や伯父たち同様に本来備わった優れた武勇を発揮した。慶長の役では慶長3年(1598年)、父・義弘に従って8,000の寡兵で明軍数万を破る猛勇を見せている(泗川の戦い)。『絵本太閤記』によると、城に攻め寄せてきた、董一元率いる明の大軍4万余りに対して、逞兵1千を率い、城外に討って出て、縦横無尽に槍を突き立てたり、多くの明の兵士を切り捨てたりしたという。城を守っていた大将の義弘と兵5千も、機を見て城外に討って出て、遮二無二突き破り、明人の首3万を討ち取ったという。この後、明人・朝鮮人は、島津義弘の軍威を恐れ「怕ろし[3]のしまんず」と云ったとされる。ただ、態度や性格が直ったわけではなく、朝鮮の役でも忠恒の横暴に苦しんだ雑兵が朝鮮側に逃亡したという記録がある。慶長4年(1599年)、専横の傾向ありとして対立していた家老伊集院忠棟を京都伏見の島津邸で自らの手で謀殺し、同年に国許で反乱(庄内の乱)を起こしたその子伊集院忠真とは一旦は和解して油断させた上で、慶長7年(1602年)、日向国の野尻で催した狩りの最中に射殺し、供の者も誅殺した。これには徳川家康の内諾があったとするのが定説で、忠真は忠恒(家久)の妹婿で、義兄弟の関係にあり朝鮮の役でも共に闘った仲でもあったが、一度主君に背いたからには非情な決断もやむを得ない処置であったと理解される。慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いで父の義弘が西軍に属したため、講和交渉をしていた伯父の義久に代わり、徳川家康に謝罪のために上洛し、本領を安堵された。同年、薩摩の内城に入り、父・義弘と伯父・義久より家督を継いだが、実権は元和5年(1619年)までは父・義弘に握られていた。慶長11年(1606年)、徳川家康から偏諱を受け、家久と名乗った。慶長14年(1609年)、3,000の軍勢を率いて琉球に出兵し、占領して付庸国とした(琉球との融和政策を図る義久とは対立していたとされている)。また、明とも密貿易を執り行い、鹿児島城(鶴丸城)を築いて城下町を整備したり、外城制や門割制を確立するなど薩摩藩の基礎を固める一方で、幕府に対しては妻子をいちはやく江戸に送って参勤交代の先駆けとした。慶長18年(1613年)、奄美群島を琉球に割譲させ、代官や奉行所などを置き、薩摩藩の直轄地とした。元和3年(1617年)、将軍徳川秀忠から、松平の名字を与えられ、薩摩守に任官される。寛永15年(1638年)、死去。享年62。殉死者が9名出ている。家督は次男の光久が継承した。

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

最新コメント
最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR