「河内史跡巡り」太龍寺・河内西国観音二十八番札所・石切駅から参道の賑わいを背に

た太龍寺河内② (2)
た太龍寺河内② (1)
「河内史跡巡り」太龍寺・河内西国観音二十八番札所・石切駅から参道の賑わいを背に、北へ緩やかな坂道を一キロほど下ると、田畑越しに雄大な大龍寺の屋根が見えてきます。生駒山系の中腹に位置し、黄檗山万福寺末寺としての伽藍配置と様式をよくとどめていることから、仏殿、斎堂、総門、開山堂は東大阪市の文化財に指定されています。季節の花々が美しく、深い緑を背景にした唐様建築、黄檗様式の風格ある建物が印象的。そして禅寺ならではの鳴り物―諸事の合図に鳴らされる「魚邦」と、雲の形をしていることから「雲版」と呼ばれるものが目を惹きます。魚邦は主に食事の合図に鳴らされ、斎堂に掛かっているもの。雲版は儀式、法要に用いられ、本来本堂にあるものだそうです。俗に「日下のかんのん」として崇拝されてきた十一面観音は、仏殿の本尊脇に安置されています。大龍寺は元禄四年(一六九二)大阪の豪商天王寺屋吉兵衛の寄進により建立され、泰宗元雄禅師がその師である慧極道明禅師を開祖に招き、開山しました。開山堂には、泰宗、慧極と檀越の天王寺屋浄悦居士の像が祀られています。

「河内史跡巡り」太龍寺・河内西国観音二十八番札所・石切駅から参道の賑わいを背に

た太龍寺河内② (2)
た太龍寺河内② (1)
「河内史跡巡り」太龍寺・河内西国観音二十八番札所・石切駅から参道の賑わいを背に、北へ緩やかな坂道を一キロほど下ると、田畑越しに雄大な大龍寺の屋根が見えてきます。生駒山系の中腹に位置し、黄檗山万福寺末寺としての伽藍配置と様式をよくとどめていることから、仏殿、斎堂、総門、開山堂は東大阪市の文化財に指定されています。季節の花々が美しく、深い緑を背景にした唐様建築、黄檗様式の風格ある建物が印象的。そして禅寺ならではの鳴り物―諸事の合図に鳴らされる「魚邦」と、雲の形をしていることから「雲版」と呼ばれるものが目を惹きます。魚邦は主に食事の合図に鳴らされ、斎堂に掛かっているもの。雲版は儀式、法要に用いられ、本来本堂にあるものだそうです。俗に「日下のかんのん」として崇拝されてきた十一面観音は、仏殿の本尊脇に安置されています。大龍寺は元禄四年(一六九二)大阪の豪商天王寺屋吉兵衛の寄進により建立され、泰宗元雄禅師がその師である慧極道明禅師を開祖に招き、開山しました。開山堂には、泰宗、慧極と檀越の天王寺屋浄悦居士の像が祀られています。

「河内史跡巡り」太龍寺・河内西国観音二十八番札所・石切駅から参道の賑わいを背

た太龍寺河内② (2)
た太龍寺河内② (1)
「河内史跡巡り」太龍寺・河内西国観音二十八番札所・石切駅から参道の賑わいを背に、北へ緩やかな坂道を一キロほど下ると、田畑越しに雄大な大龍寺の屋根が見えてきます。生駒山系の中腹に位置し、黄檗山万福寺末寺としての伽藍配置と様式をよくとどめていることから、仏殿、斎堂、総門、開山堂は東大阪市の文化財に指定されています。季節の花々が美しく、深い緑を背景にした唐様建築、黄檗様式の風格ある建物が印象的。そして禅寺ならではの鳴り物―諸事の合図に鳴らされる「魚邦」と、雲の形をしていることから「雲版」と呼ばれるものが目を惹きます。魚邦は主に食事の合図に鳴らされ、斎堂に掛かっているもの。雲版は儀式、法要に用いられ、本来本堂にあるものだそうです。俗に「日下のかんのん」として崇拝されてきた十一面観音は、仏殿の本尊脇に安置されています。大龍寺は元禄四年(一六九二)大阪の豪商天王寺屋吉兵衛の寄進により建立され、泰宗元雄禅師がその師である慧極道明禅師を開祖に招き、開山しました。開山堂には、泰宗、慧極と檀越の天王寺屋浄悦居士の像が祀られています。

「河内史跡巡り」菩提寺・河内西国観音二十九番札所・バス停、善根寺

ぼ菩提寺 (2)
ぼ菩提寺
「河内史跡巡り」菩提寺・河内西国観音二十九番札所・バス停、善根寺から徒歩十分。もとの寺号を善根寺といい、善根寺村の地名のもととなった菩提寺。聖徳太子が祈願されたということですが、創立年代は不明。今の本堂は享保年間、一七二八年に建て替えられたもので、大龍寺や長栄寺と共に、東大阪市の重要な歴史的建造物です。香木の伽羅から彫られた十一面観音は、本尊脇に祀られています。本体一寸八分という小さな像ですが、そのダイナミックな構図が素晴らしく、ぜひ間近に拝観させて頂きましょう。

「平安京物語」43“枕草子と清少納言”(せいしょうなごん、康保3年頃〈966年頃

清少納言1
清少納言2
「平安京物語」43“枕草子と清少納言”(せいしょうなごん、康保3年頃〈966年頃〉 - 万寿2年頃〈1025年頃〉)は、平安時代の女流作家、歌人。随筆『枕草子』は平安文学の代表作の一。梨壺の五人の一にして著名歌人であった清原元輔(908年 - 990年)の晩年の娘。曽祖父(系譜によっては祖父)は『古今和歌集』の代表的歌人である清原深養父。兄弟姉妹に、雅楽頭為成・太宰少監致信・花山院殿上法師戒秀、および藤原理能(道綱母の兄弟)室となった女性がいる。「清少納言」は女房名で、「清」は清原姓に由来するとされているが、近い親族で少納言職を務めたものはおらず、「少納言」の由来は不明であり、以下のような推察がなされている。女房名に「少納言」とあるからには必ずや父親か夫が少納言職にあったはずであり、同時代の人物を検証した結果、元輔とも親交があった藤原元輔の息子信義と一時期婚姻関係にあったと推定する角田文衞説。藤原定家の娘因子が先祖長家にちなみ「民部卿」の女房名を後鳥羽院より賜ったという後世の事例を根拠に、少納言であり能吏として知られた先祖有雄を顕彰するために少納言を名乗ったとする説。花山院の乳母として名の見える少納言乳母を則光の母右近尼の別名であるとし、義母の名にちなんで名乗ったとする説。実名は不明で、「諾子(なぎこ)」という説もあるが、実証する一級史料は現存しない。中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人に数えられ、42首の小柄な家集『清少納言集』が伝わる。『後拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に15首入集。また漢学にも通じた。鎌倉時代に書かれた『無名草子』などに、「檜垣の子、清少納言」として母を『後撰和歌集』に見える「檜垣嫗」とする古伝があるが、実証する一級史料は現存しない。檜垣嫗自体が半ば伝説的な人物であるうえ、元輔が檜垣嫗と和歌の贈答をしていたとされるのは最晩年の任国である肥後国においてであり、清少納言を彼女との子であるとするには年代が合わない。天延2年(974年)、父・元輔の周防守赴任に際し同行、4年の歳月を「鄙」にて過ごす。なお、『枕草子』における船旅の描写は、単なる想像とは認めがたい迫真性があり、あるいは作者は水路を伝って西下したか。この間の京への想いは、のちの宮廷への憧れに繋がったとも考えられる。天元4年(981年)頃、陸奥守・橘則光(965年 - 1028年以後)と結婚し、翌年一子則長(982年 - 1034年)を生むも、武骨な夫と反りが合わず、やがて離婚した。ただし、則光との交流はここで断絶したわけではなく、枕草子の記述によれば長徳4年(998年)まで交流があり、妹(いもうと)背(せうと)の仲で宮中公認だったという。のち、摂津守・藤原棟世と再婚し娘・小馬命婦をもうけた。一条天皇の時代、正暦4年(993年)冬頃から、私的な女房として中宮定子に仕えた。博学で才気煥発な彼女は、主君定子の恩寵を被ったばかりでなく、公卿や殿上人との贈答や機知を賭けた応酬をうまく交わし、宮廷社会に令名を残した。藤原実方(? - 998年)、藤原斉信(967年 - 1035年)、藤原行成(972年 - 1027年)、源宣方(? - 998年)、源経房(969年 - 1023年)との親交が諸資料から窺える。ことに実方との贈答が数多く知られ、恋愛関係が想定される。清少納言の名が今日まであまねく知られているのは、残した随筆『枕草子』によるところが大きい。『枕草子』には、「ものはづくし」(歌枕などの類聚)、詩歌秀句、日常の観察、個人のことや人々の噂、記録の性質を持つ回想など、清少納言が平安の宮廷で過ごした間に興味を持ったものすべてがまとめられている。長保2年(1000年)に中宮定子が出産時に亡くなってまもなく、清少納言は宮仕えを辞めた。その後の清少納言の人生の詳細は不明だが、家集など断片的な資料から、いったん再婚相手・藤原棟世の任国摂津に下ったと思われ、『異本清少納言集』には内裏の使いとして蔵人信隆が摂津に来たという記録がある。晩年は亡父元輔の山荘があった東山月輪の辺りに住み、藤原公任ら宮廷の旧識や和泉式部・赤染衛門ら中宮彰子付の女房とも消息を交わしていたという(『公任集』『和泉式部集』『赤染衛門集』など)。没年は不明で、墓所が各地に伝承される。

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

最新コメント
最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR