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「西国四十九薬師巡り」禅林寺・高野山真言宗 通称・幡川のお薬師さん

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「西国四十九薬師巡り」禅林寺・高野山真言宗 通称・幡川のお薬師さん・和歌山県海南市幡川・幡川のお薬師さんと呼ばれ、広く人々に親まれている。二百五十年以上前の天平時代、唐にあった青龍寺の僧「い為こう光上人」が、聖武天皇よりこの地をいただき、同天皇の勅願所として建立されたのが始まりである。中世の頃には「はた幡がわ川でら寺」とも呼ばれ、谷あいに七堂伽藍をはじめ、僧坊十二院・御社三社・承仕坊三院が立ち並ぶ精舎でした。しかし建武以前に金堂をはじめ寺庫までも火災にあい焼失し、さらに再興された後も、天正十三年(一五八五)に豊臣秀吉の南征による兵火のため再びことごとく焼失し、広大な寺領もすべて没収されました。諸堂の名残は地名として今なお残っている。その後、当寺は塔頭寺院の一つであった中之坊の秀慶法印により再興されました。秀慶法印は、兵火により一字も残さず堂宇が焼失したのを憂いて、慶長二年(一五九七)に日向国の仏師士賢に命じて木造の薬師如来像を造立し、京の仏師高慶に命じて、ご本尊の身体の部分を補作させて安置した。現在の本堂は天保三年(一八三一)、鐘楼堂は宝暦四年(一七五四)に再建されたものである。本尊の薬師如来(三十三年に一度開帳される秘仏。和歌山県文化財指定)は、開山の為光上人が青龍寺より招来した七仏の内の一体と伝えられています。天平時代の仏様で、西国薬師霊場会唯一の「そ塑ぞう像技法」で造られた如来様です。昔から眼病、その他の病にご利益があり、お薬師様の「わが名号を一たび耳に聞くとき願いとどけん」とのご請願通り、今日に至るまで多くの人々が救われている。




『歴史の時々変遷』(全361回)273” 喜連川騒動”

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『歴史の時々変遷』(全361回)273” 喜連川騒動”
「喜連川騒動」正保4年(1647)に喜連川藩で起きた、藩内の争いによる藩政の混乱のことである。喜連川藩藩主の喜連川氏は足利氏の古河公方家の流れを汲む大名であった。この事件当時の藩主は3代喜連川尊信であった。同時代の幕府による記録によれば、喜連川尊信の家臣二階堂主膳助と高四郎左衛門との間に党派争いが起こり、結果として高四郎左衛門は大嶋に流罪、尊信は隠居させられた、という。是より先、喜連川邑主喜連川尊信の家臣二階堂主膳助等、高四郎左衛門等と事を相訴ふ、是日、幕府、其罪を断し、尊信に致仕を命し、四郎左衛門等を大嶋に流すまた、これと関連する可能性があると思われる史料には以下のようなものがある。『寛政重修諸家譜』の喜連川家、尊信の項慶安元年尊信が家臣二階堂主膳助某、高四郎左衛門某と争論し、互にその党を結ぶ。三月十八日二人を評定所にめし問る。事決するのうち、四郎左衛門は上田主殿助重秀に、其党一色刑部某伊賀金右衛門某をば、山名主殿矩豊青木二郎左衛門直澄にめし預からる。のち四郎左衛門言葉屈し雌伏せるにより、十二月二十二日其党二人とともに大嶋に配流せらる。尊信も厳命により致仕す。「江戸幕府老中奉書 慶安元年9月7日付」「喜連川右兵衛(尊信)を押し籠めにしているのだが、そこから脱走してしまうので、今ついている家来ではなく、誰か適切な人物を一人よこしてほしい」(要約)「江戸幕府老中奉書 慶安元年11月18日付」(阿部重次・阿部忠秋・松平信綱の連名で榊原忠次に出された手紙)「喜連川右兵衛(尊信)の狂乱は紛れもなく真実で、それを隠していたことは、本来は領地没収であるが、お家の一大事なのでこれを許す。藩主の息子である梅千代(4代昭氏)はまだ幼少なのでその方(忠次)が後見をせよ。一色刑部・柴田久右衛門・伊賀金右衛門は、藩主狂乱を隠しおいていたので、その責任を取って大嶋に流罪とする。彼ら(一色・柴田・伊賀)の男子はそれぞれにお預けとして、二階堂主殿は代替につき、その方が預かることとせよ」(要約)『喜連川町誌』には、この事件について「喜連川騒動の顛末」として以下のような記述がある。慶安元年(1648年)春、脱藩浪人となった尊信派の老臣高野修理が、5人の百姓と密かに藩を抜け出し、幕府に「城代家老一色刑部派が君主喜連川尊信公を発狂の病と偽り城内に閉じ込め、藩政を我が物にしている」と直訴に至った。事件の現地調査に当たった幕府御上使は7月11日に江戸を立ち、7月17日に調査を終えて江戸に帰って、「高野修理等の直訴内容に偽りはなく、喜連川尊信は正常である」と報告した。幕府御上使は、甲斐庄喜右衛門(幕府御弓頭四千石大身旗本)・野々山新兵衛(吉良家家臣)・加々見弥太夫(吉良家家臣)の3名であった。喜連川藩の接待役は黒駒七左衛門・渋江甚左衛門・大草四郎右衛門が当たり、この3名は、事件後の一代家老となった。幕府の老中が諸藩の事件評定に参加することは珍しかったが、このときは大老酒井忠勝・老中の松平信綱・阿部忠秋・阿部重次の4人が特別にその審理に参加し、評定役には酒井忠吉・杉浦内蔵充・曽根源左衛門・伊丹順斎の4人が当たった。酒井忠吉は、大老酒井忠勝の実弟で、高家吉良義冬の義父であり、訴えられた一色刑部と同じく足利家の親族であった。喜連川から帰った幕府御上使の報告に基づき、即刻評定が下され、一色刑部・伊賀金右衛門・柴田久右衛門の3名が伊豆大島へ流罪、一色左京(一色刑部の長男)・石塔八郎・伊賀惣蔵・柴田弥右衛門・柴田七郎右衛門の5名は大名旗本預かりとなったとされる。また、この事件当時、尊信派の次席家老の二階堂又市(15歳)は、役責不行き届きの罪により白河城主本多能登守[7]に預けられたとされる。高野修理等の働きにより3代喜連川尊信は開放され藩政を取り戻し、その約5年後の承応2年(1652)、尊信の死去により4代喜連川昭氏(7歳)が大叔父である榊原忠次を後見人として家督を相続した。この喜連川騒動では、誰一人として死罪となった者はいなかったが、喜連川藩の一色派の家は断絶となったとされる。忠臣として記述されている尊信派の中で、二階堂又市だけは喜連川騒動事件の15年後に帰参を許されている。




『江戸泰平の群像』12・・後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日

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『江戸泰平の群像』12・・後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571~1617)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての第107代天皇。諱は初め和仁(かずひと)、慶長3年(1598年)12月に周仁(かたひと)と改めた。天正14年(1586年)7月に正親町天皇の東宮であった誠仁親王が薨去し、皇孫に当たる和仁親王が同年11月7日に、皇祖父にあたる正親町天皇から譲位され受禅した。後陽成天皇の在位期間は、ちょうど豊臣政権の天下統一と江戸幕府成立の時期をまたいでおり、前半と後半で天皇に対する扱いが変わっている。豊臣秀吉は、支配の権威として関白、太閤の位を利用したために天皇を尊重し、その権威を高める必要があり、朝廷の威信回復に尽力した。天正16年(1588年)に秀吉の演出した天皇の聚楽第行幸は盛大に行われた。二十五箇条の覚書によれば文禄の役では秀吉が明を征服した暁には後陽成天皇を明の皇帝として北京に遷し、政仁親王か八条宮智仁親王を日本の天皇にしようとした。ただし、後陽成天皇は秀吉の外征には反対であり、秀吉に対して「無体な所業」であると諭している。 秀吉は文禄2年(1593年)に文禄の役で日本に持ち帰られた李朝銅活字の器具と印刷書籍を後陽成天皇に献上した。同年、天皇は六条有広や西洞院時慶らに命じ、この技術を用いて「古文孝教」を印刷したと伝えられている(文禄勅版)。これは日本での銅活字を用いた最初の印刷とされている。また、後陽成天皇は慶長2年(1597年)に李朝銅活字に倣って大型木活字による勅版「錦繍段」を開版させている(慶長勅版)[2]。秀吉の死後の関ヶ原の戦いでは、丹後田辺城に拠って西軍と交戦中の細川幽斎を惜しみ、両軍に勅命を発して開城させている。慶長8年(1603年)に、徳川家康を征夷大将軍を任じ、江戸幕府が開かれる。朝廷権威の抑制をはかる幕府は干渉を強め、官位の叙任権や元号の改元も幕府が握る事となった。慶長14年(1609年)に宮中女官の密通事件(猪熊事件)では、幕府の京都所司代に厳罰を要請している。後陽成天皇は秀吉の勧めで第1皇子の良仁親王を皇位継承者としていた。ところが秀吉が死ぬとこれを嫌って弟宮である智仁親王への譲位を望むが、廷臣や家康に反対される。関ヶ原の戦い後、後陽成天皇は家康の了承を得て良仁親王を強引に仁和寺で出家させて第3皇子・政仁親王を立てる。慶長16年(1611年)、政仁親王(後水尾天皇)に譲位して、仙洞御所へ退く。だが、後水尾天皇とも上手く行かず、父子の間は長く不和であり続けたと伝えられている。元和3年(1617年)に崩御、宝算47歳。葬儀は火葬で行われた。後陽成天皇より後の天皇は全員が土葬で葬られているので、現在において最後に火葬で葬られた天皇である。儒学や和学に造詣があり自著に『源氏物語聞書』『伊勢物語愚案抄』などがあり、『日本書紀』を慶長勅版として刊行した。秀吉が高野山再興のために興山寺 (廃寺)を開基した際、木食応其に「興山上人」の号とともに勅額を下賜している。秀吉に切腹を命じられた豊臣秀次の菩提を弔う日秀尼(秀次の母、秀吉の姉)に、瑞龍寺 (近江八幡市) の寺号を与えている。その後、瑞龍寺は日蓮宗唯一の門跡寺院となった。

「平安京物語」40”奇行・好色・仏道の花山法皇“

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「平安京物語」40”奇行・好色・仏道の花山法皇“(かざんてんのう/かさんてんのう、安和元年10月26日(968年11月29日) - 寛弘5年2月8日(1008年3月17日)、在位:永観2年10月10日(984年11月5日) - 寛和2年6月23日(986年8月1日))は、日本(平安時代中期)の第65代天皇。諱は師貞(もろさだ)。花山院(かさんいん)や花山法皇とも呼ばれる。冷泉天皇の第一皇子。母は、摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子。三条天皇の異母兄。花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家、のち断絶)の祖。安和2年(969年)、叔父円融天皇の即位と共に皇太子になり、永観2年(984年)、同帝の譲位を受けて即位。生後10ヶ月足らずで立太子したのは、摂政であった外祖父伊尹の威光によるものだが、17歳で即位時には既に伊尹は亡くなっており、有力な外戚をもたなかったことは、2年足らずの在位という後果を招いた。関白には先代に引き続いて藤原頼忠が着任したが、実権を握ったのは、帝の外舅義懐と乳母子藤原惟成であった。義懐と惟成は荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化など革新的な政治を行ったが、ほどなくして天皇が退位したのに殉じて遁世した。寛和2年(986年)6月22日、19歳で宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位した。突然の出家について、『栄花物語』『大鏡』などは寵愛した女御藤原忯子が妊娠中に死亡したことを素因とするが、『大鏡』ではさらに、藤原兼家が、外孫の懐仁親王(一条天皇)を即位させるために陰謀を巡らしたことを伝えている。蔵人として仕えていた兼家の三男道兼は、悲しみにくれる天皇と一緒に出家すると唆し、内裏から元慶寺(花山寺)に連れ出そうとした。このとき邪魔が入らぬように鴨川の堤から警護したのが兼家の命を受けた清和源氏の源満仲とその郎党たちである。天皇は「月が明るく出家するのが恥ずかしいなぁ。」と言って出発を躊躇うが、その時に雲が月を隠し、天皇は「やはり今日出家する運命であったのだ。」と自身を諭した。しかし内裏を出る直前にかつて妻から貰った手紙が自室に残したままであることを思いだし、取りに帰ろうとするが、出家を極秘に行いたかった兼家が嘘泣きをし、結局そのまま天皇は内裏から出た。安倍晴明の屋敷の前を通ったとき、中から「帝が退位なさるとの天変があった。もうすでに…式神一人、内裏へ参れ」と言う声が聞こえ、目に見えないものが晴明の家の戸を開けて出てきて一行を目撃し「たったいま当の天皇が家の前を通り過ぎていきました」と答えたとある。元慶寺へ着き、天皇落飾すると、道兼は親の兼家に事情を説明してくると寺を抜け出してそのまま逃げてしまい、天皇は欺かれたことを知った。内裏から行方不明になった天皇を捜し回った義懐と惟成は元慶寺で天皇を見つけ、そこでともども出家したと伝える。この事件は寛和の変とも称されている。 この事件は親王時代に学問を教え、当時式部丞になっていた紫式部の父藤原為時や、尾張国郡司百姓等解文で有名な藤原元命の運命にも影を落とした。花山天皇は当世から「内劣りの外めでた」等と評され、乱心の振る舞いを記した説話は『大鏡』『古事談』に多い。その一方で、彼は絵画・建築・和歌など多岐にわたる芸術的才能に恵まれ、ユニークな発想に基づく創造はたびたび人の意表を突いた。『拾遺和歌集』を親撰したともいわれる。出家し法皇となった後には、奈良時代初期に徳道が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺(兵庫県宝塚市)でこの宝印を探し出し、紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、大きな法力を身につけたという。この花山法皇の観音巡礼が西国三十三所巡礼として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となっている。この巡礼の後、晩年に帰京するまでの十数年間は巡礼途中に気に入った場所である摂津国の東光山(兵庫県三田市)で隠棲生活を送っていたとされ、この地には御廟所があり花山院菩提寺とし西国三十三所巡礼の番外霊場となっている。 花山院菩提寺の真南に位置する六甲山山頂付近の六甲比命神社の磐座群の中の仰臥岩に、花山法皇、仏眼上人、熊野権現連名の碑がある。静岡県御前崎市の桜ヶ池 (御前崎市)・池宮神社をはじめ瀬織津姫と関わる場所を花山院御領とされた。出家後の有名な事件としては、長徳2年(996年)花山法皇29歳のとき、中関白家の内大臣藤原伊周・隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件がある。伊周が通っていた故太政大臣藤原為光の娘三の君と同じ屋敷に住む四の君(かつて寵愛した女御藤原忯子の妹)に花山法皇が通いだしたところ、それを伊周は自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の隆家に相談する。隆家は従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜く(さらに『百錬抄』では、花山法皇の従者の童子2人を殺して首を持ち去ったという話も伝わっている)。花山法皇は体裁の悪さと恐怖のあまり口をつぐんで閉じこもっていたが、この事件の噂が広がり伊周・隆家はそれぞれ大宰府・出雲国に左遷の体裁を取って流罪となった(長徳の変)。寛弘5年(1008年)2月花山院の東対にて崩御、紙屋上陵(現在の京都市北区衣笠北高橋町)に葬られた。死因ははっきりしないが悪性腫瘍によるものと考えられている。乳母は橘則光の母右近尼である。


『浪速史跡めぐり』慶沢園(天王寺公園内)・天王寺公園は茶臼山の南に庭園

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『浪速史跡めぐり』慶沢園(天王寺公園内)・天王寺公園は茶臼山の南に庭園は元は住友本邸の庭で、都島区は網島町の藤田邸、中央区今橋の鴻池邸と共に大阪三庭園の一つである。
木津聿斎の設計、京都は庭師小川冶兵衛によって明治四十一年に着工し大正七年に完成した。林泉回遊式の近代日本庭園である。
大小三つの島が浮かび池の周囲の林間を回遊し鑑賞する様式で全国から名石、名木を集めて広大な庭園は十年という月日を費やし出完成された。
大正十年に住友家から大阪市に寄付された。庭園の命名は伏見宮貞愛親王がされた。

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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