史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『浪速史跡めぐり』四天王寺の庚申さん・庚申堂の由来に拠れば、今から千三百年前の文武天皇の時代に疫病が日本中に蔓延した。

こ天王寺庚申さん『浪速史跡めぐり』四天王寺の庚申さん・庚申堂の由来に拠れば、今から千三百年前の文武天皇の時代に疫病が日本中に蔓延した。
薬草や医療の治療の甲斐なく、四天王寺の高僧豪範の祈祷などが行なわれたが一向に効き目無く、ひたすら祈り続けたところ天宝元年(701)庚申年の一月七日の庚申の日に、年の頃なら十六歳くらいの童子が現れて「帝釈天が、汝の人の悩みを憐れむに至誠を感じ除災無病の方便」のお告げがあった。
そのお告げに随い「青面金剛童子」を祀った。効き目があってか疫病災難は退散し庚申年の七日の庚申の日をもって庚申信仰が始った。四天王寺の庚申堂は庚申日以外には閑散として、縁日には護摩焚きが行われ蒟蒻、七色菓子などの出店が出て「大釜で煮た蒟蒻」が売られている。
境内には「三猿堂」があって木彫りの「見ざる・聞かざる・言わざる」が祀られてる。「庚申に日」には心の中で願いを掛けて、念じながら北を向いて黙って食べる」とご利益があると言い伝えらてる。庚申堂内には普通の寺院と違って、仏像らしき像は安置されていない。

「二十二社巡り」廣瀬大社・奈良は大和側の合流する川合に廣瀬大社が鎮座する。 「廣瀬坐和加宇加売命神社」として表れ、崇神天皇の時世に創建されたと言う。祭神の若宇加能売命

ひ廣瀬神社I
ひ広瀬大社9
「二十二社巡り」廣瀬大社・奈良は大和側の合流する川合に廣瀬大社が鎮座する。
「廣瀬坐和加宇加売命神社」として表れ、崇神天皇の時世に創建されたと言う。祭神の若宇加能売命は大忌神と言う農業神。祭られている所から水神としての意味合いの神であったろうと思われている。
廣瀬の名が史料に初めて現れるのは『日本書紀』の天武四年(675)に「風神を龍田の立野に大忌神を廣瀬の河曲に祀る」と記されている。
龍田は生駒にある龍田大社、もう一つは廣瀬大社ことで、これは風水害がない事を祈り五穀豊穣を祈願する「大忌祭」の初見とされている。
何より有名なのは「砂かけ祭」とも呼ばれテレビなどに映し出される奇祭、人と牛に扮した者が田を耕すに参詣者の人の中に砂をかけあう。



「神仏霊場巡り」大念仏寺・平野に府下最大の木造物が大念仏寺で、日本十三宗の一つで、融通念仏宗の総本山である。本尊は十一尊天得阿弥陀如来で開山良忍上人である。

だ大念仏A
「神仏霊場巡り」大念仏寺・平野に府下最大の木造物が大念仏寺で、日本十三宗の一つで、融通念仏宗の総本山である。本尊は十一尊天得阿弥陀如来で開山良忍上人である。
JR平野駅から南へ五分、国道を渡ると昔ながらの町屋が見える。古来平野郷と称して自治独立を徳川家康から許された。その平野郷の中にあって浪速、河内、大和を中心に末寺、檀家を持ち、地元に根付いた念仏道場である。
大きな堂内で繰り広げられる大数珠回し「百万遍大数珠くり」五月の連休の五日間「平野の万部おねり」は浪速、河内、大和の、難波の風物詩である。
この平野の地に大念仏寺を創建したのは「良忍上人」(聖応大師1072~1132)尾張国生れである。
比叡山に上がり修行後、洛北大原で二十余年の修行の末「阿弥陀仏」から融通念仏を授かり、諸国を念仏勧進をして、その途中の四天王寺に一夜参籠し聖徳太子の夢告により平野の地で大念仏会を開いた所、人々の参集があって、朝廷の天聴があって鳥羽天皇の加護と帰依があった。
僧にだけ留まらず一般庶民にまで普及し信者が急増した。室町には僧法明が各地の寺院に広め融通念仏が行なわれた。
「一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切行一行、十界一念、融通念仏、億百万遍、功徳円満」と言う風に念仏の功徳を融通するものであった。この念仏の考え方はその後の日本の阿弥陀信仰に大きな影響を与えた。中世、近世と伝統的な行事などは近年まで続けられ、浪速、河内一円で十一尊天得阿弥陀如来を奉納し鉦を打ち鳴らし檀家を廻る法要は有名である。
また本堂の天井の周りに吊ってある巨大な数珠は法会に降ろし信者が堂内を輪になって念仏をあげながら数珠を廻し、繰る法会はニュースの映像でよく見ることができる。



『歴史の時々変遷』(全361回)205“上田合戦” 「上田合戦」信濃国の上田城

上田2
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『歴史の時々変遷』(全361回)205“上田合戦”
「上田合戦」信濃国の上田城(現:長野県上田市)と近隣の山城周辺、上田市の東部を南北に流れる神川付近などで行われた真田氏と徳川氏の戦いの総称である。
この地で真田氏と徳川氏の戦は2回行われ、天正13年(1585)の戦を第一次、慶長5年(1600年)の戦を第二次とし区別する。
上田は東信濃の小県郡にあり、この付近は上田城築城以前から武田氏・上杉氏・後北条氏の国境として不安定な地域であったが、真田昌幸が武田氏の下で上野国吾妻郡・沼田を平定後、小県郡を平定し、上田城を築城した。
この戦いで真田昌幸は主に上田城に籠もり戦ったことから、上田城の戦い、上田城攻防戦などとも呼ばれる。ただし、正確には上田城のみならず砥石城や丸子城など上田小県に点在する山城も含めた総力戦であったため上田合戦と呼ぶ方が相応しい。
天正10年(1582)3月、織田信長が行った甲州征伐により武田氏は滅亡。甲斐から信濃、上野に及んだ武田遺領は織田家家臣に分与され、武田旧臣の信濃国人衆らは織田政権に臣従した。同年6月に京都で織田信長が横死(本能寺の変)し、織田家と友好関係だった北条家が、北条氏直率いる5万6,000の兵で織田領上野に侵攻し、織田政権の関東管領と目される滝川一益率いる2万を神流川の戦いで撃破し、滝川一益は本拠地の伊勢まで敗走する。
これに前後して甲斐の河尻秀隆が一揆により戦死、北信濃の森長可も旧領の美濃に撤退し、南信濃の毛利秀頼も尾張へと撤退すると、織田領である信濃、甲斐、上野が一気に空白状態となり、越後の上杉景勝や相模の北条氏直、三河の徳川家康など近隣勢力が侵攻し、旧織田領を巡る天正壬午の乱が起こる。
甲斐を制圧した徳川家康が南信濃へ、上杉氏は北信濃へ、そして北条氏は上野国から碓氷峠を越えて東信濃へと侵攻した。このとき東信濃から西上野に勢力を保っていた真田昌幸は北条方に属していたが、徳川方の依田氏の工作により離反する。
10月には徳川・北条の間で和睦が成立するが、その和睦条件として徳川傘下となっていた真田氏の上野沼田領と北条氏が制圧した信濃佐久郡を交換することとした。翌天正11年(1583)から昌幸は上田城の築城に着手しており、沼田領や吾妻領を巡り北条氏と争っていた。
天正13年(1585)には家康が甲斐へ着陣して昌幸に沼田領の北条氏への引き渡しを求めるが、昌幸は徳川氏から与えられた領地ではないことを理由にして拒否し、さらに敵対関係にあった上杉氏と通じた。
同年7月、浜松に帰還した家康は昌幸の造反を知ると八月に真田討伐を起こし、家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7000の兵を真田氏の本拠・上田城に派遣する。徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の信濃国分寺付近に兵を展開。
これに対して真田方は約1200人であったと言われ、昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城した。また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。
閏8月2日に上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退される。更に後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死した。
この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われる。
一方、真田軍は40人ほどの犠牲ですんだ。翌日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏(後、真田氏に臣従)の篭る丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後20日間程対陣を続ける。
この間に上杉勢援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は援軍(井伊直政(一部部隊は当初より参陣)、大須賀康高、松平康重の5000)を出すと共に一時撤退を下令、これを受け徳川軍は28日に上田より撤退した。
その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、11月には譜代の重臣石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、完全に撤退することになる。合戦の記録は真田家の『真田軍記』ほか、徳川方の『三河物語』にも記されている。この戦いで昌幸は優れた智謀であると評されることとなる。
また、この合戦によって徳川家康の真田氏に対する評価は高まり、結果として本多忠勝の娘である小松姫を真田信之へ嫁がせて懐柔するきっかけともなった。
真田氏はその後豊臣政権に臣従しており、上田合戦に至るまでの諸勢力との外交や数ヶ郡を支配する勢力拡大は、真田氏が小領主から大名化していく過程であると指摘される。



『戦国時代の群像』134(全192回) 前田利長(1562~1614)安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名

前田1
前田3
『戦国時代の群像』134(全192回)
前田利長(1562~1614)安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。
加賀藩初代藩主。加賀前田家2代。藩祖である前田利家の長男(嫡男)。母は高畠直吉の娘のまつ(芳春院)。正室は織田信長の娘の永姫(玉泉院)。初名は利勝、天正17年(1589)頃に利長と改名する。
若年より織田信長・豊臣秀吉旗下の指揮官として転戦した。秀吉死後から江戸幕府成立に至る難局を、苦渋の政治判断により乗り越え、加賀藩の礎を築いた。
永禄5年(1562)1月12日、織田氏の家臣・前田利家の長男として尾張国荒子城(現在の愛知県名古屋市)に生まれる。幼名は犬千代。初めは安土城で織田信長に仕える。
天正9年(1581年)、父・利家の旧領越前国府中の一部を与えられ、信長の娘・永姫を室に迎える。天正10年(1582年)の本能寺の変は、永姫とともに上洛中の近江国瀬田(現在の前田3
前田1
滋賀県大津市東部)で聞き、当時7歳の永姫を前田の本領・尾張国荒子へ逃がし匿わせ、自身は織田信雄の軍に加わったとも、蒲生賢秀と合流して日野城に立て籠もったともいわれる。
信長死後は父・利家と共に柴田勝家に与する。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いにも参加し、戦後は父と共に越前府中城へ撤退する。
父が羽柴秀吉に恭順し、秀吉と共に勝家の本拠・北ノ庄城を攻める折り、秀吉は利長母のまつに「孫四郎は置いていく」と利長を残しておこうとしたが、まつはそれを断り、利長を従軍させた。利長はわずか2騎の供回りで北ノ庄城攻めに加わったと伝わる。
勝家の自刃後は秀吉に仕えた。天正13年(1585)、秀吉により佐々成政が支配していた越中国(富山県)が制圧されると、同国射水郡・砺波郡・婦負郡32万石を与えられた。秀吉の配下として九州平定、小田原征伐などに従軍参加し、各地を転戦して功績を立てた。
特に九州平定戦では蒲生氏郷と共に岩石城を落とす活躍をしている。天正16年(1588)、豊臣姓を下賜された。慶長3年(1598)には利家より前田家家督と加賀の金沢領26万7,000石を譲られる。父の利家は豊臣政権において五大老の一人として徳川家康に対抗する位置にあった。
慶長4年(1599)閏3月3日、利家が病死したため、その跡を継ぎ五大老の一人(及び豊臣秀頼の傅役)となる。その翌日に五奉行の一人石田三成が襲撃されるなど党派抗争が始まり、前田氏は対徳川の急先鋒的立場に立たされる。
利家の遺言では3年は上方を離れるなとあったにもかかわらず、同年8月、家康の勧めにより金沢へ帰国した。翌月、増田長盛などが利長・浅野長政らの異心を家康に密告する。
この時期、前田氏を屈服させようとする家康の謀略があったと考えられており、家康は強権を発動して加賀征伐を献言する。この家康による加賀征伐に対し、前田家は交戦派と回避派の二つに分かれ、初め交戦派であった利長は細川氏、宇喜多氏を通じて豊臣家に対徳川の救援を求めた。
しかし豊臣家がこれを断ったため、実母の芳春院(まつ)の説得もあり、重臣の横山長知を弁明に3度派遣し、芳春院を人質として江戸の家康に差し出すこと、養嗣子・利常と家康の孫娘・珠姫(徳川秀忠娘)を結婚させることなどを約して交戦を回避した(慶長の危機)。
この際に浅野長政・浅野幸長・大野治長などが連座している。慶長5年(1600)、利長は金沢を出陣するが、この金沢出陣についてはその解釈が二説あり、上杉征伐に出陣する際に背後の丹羽長重を討とうとしたとする説、石田方の挙兵に対抗するための出陣とする説である。
いずれにせよ、家康出陣中に石田三成らが五大老の一人・毛利輝元を擁立して挙兵すると、利長は大聖寺城(石川県加賀市)を攻略し、越前国まで平定。金沢への帰路の8月8日には小松城(石川県小松市)主・丹羽長重軍に背後を襲われ、からくも撃退した(浅井畷の戦い)。9月11日、弟・前田利政の軍務放棄に悩まされながらも再び西上。
18日には長重と和議を結ぶ。関ヶ原の戦い後、西軍に与した弟・利政の能登の七尾城22万5,000石と西加賀の小松領12万石と大聖寺領6万3,000石(加賀西部の能美郡・江沼郡・石川郡松任)が加領され、加賀・越中・能登の3ヶ国合わせて122万5千石を支配する日本最大の藩・加賀藩が成立した。
利長は、関ヶ原の戦いで敗れて薩摩国へ逃れていた宇喜多秀家の助命を家康に嘆願し、実現した。また家康の重臣・本多正信の次男の本多政重に3万石を与えて召し抱えた。男子がなかったので、異母弟の利常(利家の四男、初名は利光)を養嗣子として迎え、越中国新川郡富山城に隠居した(隠居領は新川郡22万石)。幼い利常を後見しつつ富山城を改修、城下町の整備に努めた。
慶長14年(1609)、富山城が焼失したため一時的に魚津城で生活した後、射水郡関野に高岡城(高山右近の縄張と伝わる)を築き移った。城と城下町の整備に努めるも、梅毒による腫れ物が悪化して病に倒れた。隠居領から10万石を本藩へ返納するなど自らの政治的存在感を薄くしていく。
慶長18年(1613)には豊臣家より織田頼長が訪れ勧誘を受けるが、利長はこれを拒否した。慶長19年(1614)、病はますます重くなり京都隠棲、及び高岡城の破却などを幕府に願って許されるが、5月20日に高岡城で病死。服毒自殺ともされる(『懐恵夜話』)。享年53。

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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