『歴史の時々変遷』(全361回)244“樫井の戦い”「樫井の戦い」江戸幕府と豊臣家の間の大坂の陣(大坂の役)のうち、1615年(慶長20年)に発生した大坂夏の陣における戦いの一つ。豊臣方

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『歴史の時々変遷』(全361回)244“樫井の戦い”「樫井の戦い」江戸幕府と豊臣家の間の大坂の陣(大坂の役)のうち、1615年(慶長20年)に発生した大坂夏の陣における戦いの一つ。豊臣方は、大坂城が大坂冬の陣ののち堀をすべて埋められてしまったため、夏の陣では城を出て戦わざるをえない状況になっていた。河内方面、大和方面および紀伊方面より大坂城に迫る幕府軍に対し、豊臣軍は紀伊の浅野長晟への攻撃を決定、大野治房を主将に、塙直之、岡部則綱、淡輪重政ら兵3,000を送った。また、紀伊および和泉で一揆を煽動し、豊臣軍の紀伊攻撃に呼応するよう画策した。浅野長晟は、国内で一揆の兆候(紀州一揆)があったことから出陣を見合わせていたが、4月28日、兵5,000を率いて和歌山城を出発した。先鋒隊は和泉国佐野に着陣した日の夜半、偵察により豊臣軍の先方を発見、本陣に報告した。この時豊臣軍の兵数を20,000と誤認したため、浅野勢は少数での迎撃に適した樫井まで退却することにし、亀田高綱を和泉国安松に殿軍として残した。4月29日夜明け、豊臣軍の先鋒塙直之、岡部則綱と亀田高綱の間で戦闘が開始された。 亀田は遅滞戦術を展開し、豊臣軍を樫井まで誘引した。樫井では亀田隊に浅野知近、上田重安らが加わり豊臣軍と激戦になった。塙と岡部は先鋒を争う形で突出したため後続が追いつかず、やがて岡部は敗走、塙と淡輪は戦死した。 戦闘後、浅野勢は一旦紀伊国山口まで撤退した。一揆勢の蜂起を合図に攻めようと考えていた大野治房は、先鋒で戦闘が発生したことに驚き、樫井へ急いだ。しかし、既に浅野勢は撤退した後だったため大坂城に引き返した。和泉の一揆は、大坂城から一揆を指揮するために送られてきた大野治長の家臣が浅野勢に捕らえられており失敗していた。紀伊の一揆も留守居の熊谷治部、寺沢半兵衛らの計略により鎮圧された。

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「二十二社巡り」大原野神社・西山連峰の南に位置する大原野神社は『延喜式』神名帳には式外社であるが、二二社に列せられている。当社の創建については延暦三年(784)長岡京遷都

お大原野神社6 (2)
お大原野神社6 (1)
「二十二社巡り」大原野神社・西山連峰の南に位置する大原野神社は『延喜式』神名帳には式外社であるが、二二社に列せられている。当社の創建については延暦三年(784)長岡京遷都の際に藤原氏出身の桓武天皇の后、藤原乙牟漏が、氏神の春日社への参詣が容易になくなり、この地に春日明神を勧請したことに始まる。平安遷都後に嘉祥三年(850)左大臣藤原冬嗣が社殿を造営して、地名をとって大原野神社と称した。その後藤原順子が行啓、円融天皇が行幸と共に摂関家をはじめとする崇敬が高まり繁栄をした。寛弘二年(1005)一条天皇の中宮彰子の行啓は有名で、父藤原道長を始め、紫式部らが供奉し、華やかな行列に目を見張らせた。境内の長い参道を行くと右手に奈良の猿沢の池に似せた鯉沢池があって両側に深い樹林の奥に赤い本殿が見える。訪れる人もまばらで静寂が辺りを包んでいる。

「神仏霊場巡り」金峯山寺・奈良県吉野郡吉野町にある金峰山修験本宗(修験道)の本山である。本尊は蔵王権現、開基は役小角と伝える。

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「神仏霊場巡り」金峯山寺・奈良県吉野郡吉野町にある金峰山修験本宗(修験道)の本山である。本尊は蔵王権現、開基は役小角と伝える。
金峯山寺の所在する吉野山は、古来桜の名所として知られ、南北朝時代には南朝の中心地でもあった。
「金峯山」とは、単独の峰の呼称ではなく、吉野山と、その南方二十数キロの大峯山系に位置する山上ヶ岳を含む山岳霊場を包括した名称であった。
吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人を集めてきた。
吉野・大峯の霊場は、和歌山県の高野山と熊野三山、及びこれら霊場同士を結ぶ巡礼路とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素となっている。
奈良県南部の吉野山に位置する金峯山寺は、七世紀に活動した伝説的な山林修行者・役小角が開創したと伝え、蔵王権現を本尊とする寺院である。
金峯山寺のある吉野山には吉水神社、如意輪寺、竹林院、桜本坊、喜蔵院、吉野水分神社、金峯神社など、他にも多くの社寺が存在する。
金峯山寺の中興の祖とされるのは、平安時代前期の真言宗の僧で、京都の醍醐寺を開いたことでも知られる聖宝である。『聖宝僧正伝』によれば、聖宝は寛平六年(894年)、荒廃していた金峯山を再興し、参詣路を整備し、堂を建立して如意輪観音、多聞天、金剛蔵王菩薩を安置したという。
両部曼荼羅密教末法思想浄土信仰金峯山に参詣した著名人には、宇多法皇、藤原道長、藤原師通、白河上皇などがいる。
このうち、藤原道長は山上の金峯山寺蔵王堂付近に金峯山経塚を造営しており、日本最古の経塚として知られている。埋納された経筒は江戸時代に発掘され現存している。
金峯山は未来仏である弥勒仏の浄土と見なされ、金峯山(山上ヶ岳)の頂上付近には多くの経塚が造営された。
修験道は中世末期以降、「本山派」と「当山派」の二つに大きく分かれた。本山派は天台宗系で、園城寺(三井寺)の円珍を開祖とする。
この派は主に熊野で活動し、総本山は天台宗寺門派の聖護院である。一方の当山派は真言宗系で、聖宝を開祖とする。吉野を主な活動地とし、総本山は醍醐寺三宝院であった。
金峯山寺は中興の祖である聖宝との関係で、当山派との繋がりが強かった。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に移り、南朝を興したのにも、こうした軍事的背景があった。
近世に入って慶長19年(1614年)、徳川家康の命により、天台宗の僧である天海(江戸・寛永寺などの開山)が金峯山寺の学頭になり、金峯山は天台宗の傘下に置かれることとなった。
明治維新に入り修験道信仰は多大な打撃をこうむった。1868年(明治元年)発布された神仏分離令によって、長年全国各地で行われてきた神仏習合の信仰は廃止され、寺院は廃寺になるか、神社に変更し生き延びるほかなかった。
1872年(明治五年)には追い討ちをかけた形で修験道廃止令が発布され、1874年(明治七年)には金峯山寺自体も廃寺に追い込まれた。
僧侶・修験道者らの嘆願により、1886年(明治十九年)には「天台宗修験派」として修験道の再興が図られ、金峯山寺は寺院として復興存続が果たせた。
ただし、山上の蔵王堂は「大峯山寺」として、金峯山寺とは分離され現在に至っている。太平洋戦争後の1948年(昭和二十三年)に、天台宗から分派独立して大峯修験宗が成立し、1952年(昭和二十七年)には金峯山修験本宗と改称、金峯山寺が同宗総本山となっている。





『戦国時代の群像』173(全192回)前田利政(1578~1633)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。前田利家の次男、母はまつ。天正6年

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『戦国時代の群像』173(全192回)前田利政(1578~1633)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。前田利家の次男、母はまつ。天正6年(1578年)、織田氏の家臣・前田利家の次男として尾張国荒子城(愛知県名古屋市)にて生まれる[1]。父・利家が豊臣氏に従い加賀百万石の大名になると、利政もこれに伴い文禄2年(1593年)に能登国七尾城の城主となる。同年、豊臣姓を下賜された。 さらに、文禄4年(1595年)、羽柴氏を与えられた。慶長4年(1599年)に父より能登に所領を分与されて大名となった。また、同年に大坂城の詰番衆となる。利家死後の慶長5年(1600年)、豊臣政権五奉行の石田三成らが毛利輝元を擁立して五大老の徳川家康に対して挙兵すると、兄・利長と共に東軍に属し関ヶ原に向かう途中、北陸の西軍方の大聖寺城の山口宗永を陥れた。しかし、途上で突如、利長たちは金沢へ引き返した(一説には敦賀城主大谷吉継側の謀略によるといわれる)。金沢城へ引き返したあと利長が再出陣するが、利政は動かなかった。その原因は妻子が三成の人質となっていたためともいわれる(『象賢紀略』)、また利政は家康に対する反発心から石田三成方に気脈を通じていたとする指摘もある。見瀬和雄は利政は妻子の救出を図ろうとしたが、事態が急速に展開し、利長が出陣したために、病気と偽り出陣しなかったのではないかとし、石田方であったとする説を否定している。関ヶ原の戦い後、西軍が敗れたために利政は能登の所領を没収され、その所領は兄に与えられた。その後は京都の嵯峨に隠棲し、宗悦と号した。本阿弥光悦とも親交があったとされる。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、両陣営から誘いを受けたが中立を決め込んだという。戦後、西軍の誘いに乗らなかった利政の行動に家康は気に入り、利政を10万石の大名取り立てる打診をしたが、「自分は大野治長の指揮下に入りたくなかっただけで、関東方(徳川氏)への忠節を尽くす行動ではない」と辞退している。寛永10年(1633年)、京都の町人・角倉与市邸(長女の婚家先)で死去。享年55。墓所は京都府京都市北区の大徳寺。なお、利政の子・直之は叔父の加賀藩主・前田利常に仕え、前田土佐守家を立てた。

「平安京物語」9“俘囚”(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったもの。このうち隷属の度合いが低いものを夷俘(いふ)という。日本の領土拡大によって俘囚

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「平安京物語」9“俘囚”(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったもの。このうち隷属の度合いが低いものを夷俘(いふ)という。日本の領土拡大によって俘囚となったもの、捕虜となって国内に移配されたものの二種の起源がある。また、主に戦前戦中には戦時捕虜の身分にあるものも俘囚と呼んだ。移配俘囚・移配された俘囚は、7世紀から9世紀まで断続的に続いた大和と蝦夷の戦争で、大和へ帰服した蝦夷男女が集団で強制移住させられたものである。移住先は九州までの全国におよぶ。朝廷は国司に「俘囚専当」を兼任させ、俘囚の監督と教化・保護養育に当たらせた。俘囚は、定住先で生計が立てられるようになるまで、俘囚料という名目で国司から食糧を支給され、庸・調の税が免除された。しかし実際に移配俘囚が定住先で自活することはなく、俘囚料の給付を受け続けた。俘囚は、一般の公民百姓らとは大きく異なる生活様式を有しており、狩猟および武芸訓練が俘囚生活の特徴であった。俘囚と公民百姓の差異に対応するため、812年(弘仁3)、朝廷は国司に対し、俘囚の中から優れた者を夷俘長に専任し、俘囚社会における刑罰権を夷俘長に与える旨の命令を発出している。9世紀、移配俘囚は国内の治安維持のための主要な軍事力として位置づけられていた(→国衙軍制)。俘囚が有していた狩猟技術・武芸技術は、乗馬と騎射を中心とするものであり、俘囚の戦闘技術は当時登場しつつあった武士たちへ大きな影響を与えた。例えば俘囚が使用していた蕨手刀は、武士が使用することとなる毛抜形太刀へと発展している。このように、俘囚の戦闘技術は揺籃期の武士へと継承されていったのである。しかし、813年頃の出雲国「荒橿の乱」、875年の「下総俘囚の乱」、883年の「上総俘囚の乱」などのように、俘囚による騒乱が次第に発生するようになった。これらの原因は、俘囚らによる処遇改善要求であったと考えられているが、こうした事態に頭を悩ませた朝廷は、897年(寛平9)、移配俘囚を奥羽へ送還する政策を打ち出した。これにより全国へ移配されていた俘囚は奥羽へ還住することとなった。奥羽俘囚・陸奥・出羽にとどまった俘囚は、同じ地域の朝廷派の人々と異なり、租税を免除されていたと考えられている。彼らは陸奥・出羽の国衙から食糧と布を与えられる代わりに、服従を誓い、特産物を貢いでいた。俘囚という地位は、辺境の人を下位に置こうとする朝廷の態度が作ったものであるが、俘囚たちは無税の条件を基盤に、前記の事実上の交易をも利用して、大きな力を得るようになった。これが、俘囚長を称した安倍氏 (奥州)、俘囚主を称した出羽清原氏、俘囚上頭を称した奥州藤原氏の勢威につながった。しかし、奥州藤原氏の時代には、俘囚は文化的に他の日本人と大差ないものになっていたと考えられる。奥州藤原氏の滅亡後、鎌倉幕府は関東の武士を送り込んで陸奥・出羽を支配した。俘囚の地位を特別視するようなことは次第になくなり、歴史に記されることもなくなった。なお、海保嶺夫(1943年 - )は中世津軽地方の豪族安東氏を俘囚長と同様の存在としている。蝦夷外(日本人)で俘囚となってしまった例・『続日本紀』神護景雲3年(769年)11月25日条に、元々は蝦夷ではないのに俘囚となってしまった例が記述されている。陸奥国牡鹿郡の俘囚である大伴部押人が朝廷に対し、先祖は紀伊国名草郡片岡里の大伴部直(あたい)といい、蝦夷征伐時に小田郡嶋田村に至り、住むようになったが、その子孫は蝦夷の捕虜となり、数代を経て俘囚となってしまったと説明し、今は蝦夷の地を離れ、天皇の徳の下で民となっているので、俘囚の名を除いて公民になりたいと願い出たため、朝廷はこれを許可したと記される。宝亀元年(770年)4月1日条にも、父祖は天皇の民であったが、蝦夷にかどわかされ、蝦夷の身分となってしまったという主張があり、敵である蝦夷を殺し、子孫も増えたため、俘囚の名を除いてほしいと願い出たため、朝廷がこれを許可している。


プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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