「一ノ宮巡り」坐摩神社・祭神生井神・福井神・波比岐神・阿須波神 大阪市中央区久太郎町4の3・式内社・旧官幣中社・

い坐摩神社8
少し大きい文字「一ノ宮巡り」坐摩神社・祭神生井神・福井神・波比岐神・阿須波神
大阪市中央区久太郎町4の3・式内社・旧官幣中社・
大阪の都心の中心にあって地域の守護神社として、南御堂の西側に隣接し、入り口に大小三つの「三つ鳥居」が見える。祭神は生井(いくいの)神(かみ)・福井(さくいの)神(かみ)・綱(つな)長井(ながいの)神(かみ)・波比祇(はひきの)神(かみ)・阿(は)須波(すはの)神(かみ)の五柱を神武天皇が高皇産霊神と天照大神の神勅を受けて宮中に祀ったのが起源とされている。
創建は徳天皇の難波高津宮の皇居であり、宮中の地霊を祀る為に鎮座されたと言う。
社名について「坐摩巫」には都下(つげ)国造(くにのみやつこ)の七歳以上の童女を充てるとされ、西からくる穢れを祓う儀式が行われるのに由来をしているのではないかと思われる。
都下については淀川の河口一帯を指すとされ、世襲宮司の渡辺氏が、この都下国造の末裔であり。嵯峨源氏の流れを汲むものと言われている。
『延喜式神名帳』では摂津国西成唯一の大社に列し、住吉大社と同一に摂津一ノ宮を称している。
天正十一年(1583)大阪城築城に際して、西横堀川に近い現在日に遷座をしてきた。
また境内には「陶器神社」があって江戸時代には、この界隈には陶器問屋が軒を連ねていた。その名残に末社に「冬季神社」を祀っている。
明治以前まで、府社に列していたが昭和十一年に旧官幣中社に昇格した。しかしその時の新社殿も大阪大空襲で焼失し現在のような鉄筋に建て替えられた。
近年上方落語の発祥の地として初代桂文治が寄せを開いた故事に則り、境内に「上方落語の発祥の地」の石碑が建立された。
★創建については『古事記』にある神功皇后の三韓征伐より帰還した時に淀川河口に坐摩神を祀ったことに由来する。
今日でも旧社地に坐摩神社の行宮には「神功皇后の鎮座石」と言われる巨石が祀られている
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

「一ノ宮巡り」枚岡神社・祭神天児屋根大神・比売大神・武甕槌大神・斎主大神

ひ枚岡神社5 (1)

「一ノ宮巡り」枚岡神社・祭神天児屋根大神・比売大神・武甕槌大神・斎主大神
大阪府東大阪市出雲井町7の16・式内社・旧官幣大社
元春日として春日大社が、この枚岡神社の祭神を勧請し春日大社が創建された。また春日社から武甕槌大神・斎主大神を勧請し春日神を祀った。
第一殿に天児(ままのこ)屋根(やねの)命(みこと)、第二殿に比売神、第三殿に武甕槌命、第四殿に斎主命を祀る。
社伝に依れば、神武天皇紀元前三年に神武天皇の侍臣の中臣氏の祖の天(あめ)種子(たねこ)命(みこと)が、天皇の命で神津岳の頂きに祖神の天児屋根神を祀ったのが創建とされる。
天児屋根命は『記紀』に依れば宮廷の祭礼を務める神で、中臣氏のあと藤原氏の祖神である。
中臣の支族平岡連は河内国に栄え祀ったのがこの社である。
枚岡の梅林はかおり風景百選の一つ、昔は東高野街道から一直線に参道が有った形跡を見ることが出来る。その参道を横切るように近鉄奈良線の枚岡駅が遮るように、駅のホームから枚岡神社を望める。
平岡(枚岡)の社名は神津嶽の頂が平らだったからによる。また中臣氏の支流平岡連の氏神とされ、白雉二年(650)に平岡連によって中腹の現在地に遷座された。旧鎮座地には奥宮がある。
★『古事記』では天児屋根神は興(こご)台産(とむす)霊(ひ)の子、天の岩屋戸の前で祝詞を奏でて天照大神の出現を祈り、後に天孫に従って降った五部神の一人で、その子孫は代々大和朝廷の祭祀を司った。中臣・藤原氏の祖神とする。
経津主神は磐筒男神・磐筒女神の子。天孫降臨に先立ち武甕槌神と共に葦原中国を平定し、大巳(おおなむ)貴(ち)命(みこと)(大国主命)を説得し、葦津中国を皇孫のニニギ命に譲らせた。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

「一ノ宮巡り」大和国一ノ宮・大神神社・主祭神大物主神奈良県桜井市三輪1422・大和国一ノ宮・式内社・旧官幣大社・

お大神神社m (2)

「一ノ宮巡り」大和国一ノ宮・大神神社・主祭神大物(おおもの)主(ぬし)大神(おおかみ)
奈良県桜井市三輪1422・大和国一ノ宮・式内社・旧官幣大社・神武東征の以前よりこの地域纏向一帯に勢力を持った、先住氏族の磯城彦(しきひこ)が崇拝し、代々族長によって引き継がれた磐座(いわくら)祭祀(さいし)の儀式が行われたと思われている。皇室の崇敬も深く融和の為に外戚関係にあった。旧来は「大神大物主神社」と呼ばれてきた。大神神社には本殿がない、三輪山自体が神体としており、江戸時代に造営された拝殿から三輪山自体の御神体を仰ぎ見る「古神道」(原始神道)の形を残している。三輪山の祭祀は山や山麓に留まらず、初瀬川、巻向川に挟まれた地域から望拝して行われた。大神氏の同族は各地に点在し活躍したことは国史によって知られることで、天平神護元(765)神封一六〇個の内、大和三五戸、摂津二五戸、遠江十戸、美濃五十戸、長門三十戸、と各地に神封を得ている。また各地にミワ神社が祀られている理由が窺える。『延喜式』には名神大社、月次、相嘗、新嘗などの祭の幣を預かる。中世には大和国一ノ宮として二十二社の一に数えられ朝野の崇敬を受けた。拝殿の奥には三つ鳥居は明神鳥居三つを一つに組み合わせた特異な形をしている。鳥居から辺津磐座まで禁足地で、4,5世紀の布留式土器、須恵器など勾玉、臼玉などは出土され、大半の須恵器は堺市の泉北古窯で焼かれたことが判明され、何らかの関係が有ったのかと思われている。★
『古事記』に大国主神が国造りに少彦名神と共に精を出して平定をしていたが、ある時、少彦名神は常世国に行ってしまい途方に暮れておる時に海原の彼方から現れた「幸魂奇魂」であり、大和国の東方の山に祀れば国造りを手伝いと言った。その山とは三輪山(御諸山)に鎮座する大物主神であった。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

「一ノ宮巡り」住吉大社・祭神底筒男命・中筒男命・表筒男命・息長足姫命 大阪府大阪市住吉区住吉2-9-89・摂津国一ノ宮・式内社・二十二社・旧官幣大社

す住吉大社8 (2)

「一ノ宮巡り」住吉大社・祭神底筒男命・中筒男命・表筒男命・息長足姫命
大阪府大阪市住吉区住吉2-9-89・摂津国一ノ宮・式内社・二十二社・旧官幣大社・住吉大社と言えば下関の住吉大社・博多の住吉神社の「日本三大住吉』として賛否者も多く、中でも摂津の国一ノ宮住吉大社は全国二千三百社の総本社である。主祭神は海の神として住吉三神に神功皇后の息長足姫命を合わせて四柱・第一本宮・底筒男命。第二本宮・中筒男命・第三本宮・表筒男命が祀られている。
創建は仲哀天皇の御世、神功皇后が三韓征伐より七道の浜(堺市七道)付近に帰還した時、神功皇后の神託により天火明命の流れを汲む一族の豪族田裳見宿禰が住吉三神を祀ったのが始まりという。
住吉大社の古代大和王権の外交渡航の関連した神社で、遣唐使・遣隋使の守護神であった。特に津守氏遣唐神主として乗船をした。大社の南部は細江川。古代の細江に当り仁徳天皇が開拓をさせた住吉津、「住之江津」から発展をする。『延喜式神明帳』には「住吉坐神社、四坐」と記され、名神大社に列せられた。現在の社殿は海岸線より離れ街中にあるが、江戸時代までは境内馬場は海に面し、白砂青松の風光明媚な美景の名所だった。★『古事記』には住吉大神が多く記載されている。【イザナキ大神は水中に入って黄泉の国に行って身に付いた穢れからは八十(やそ)禍津(がまつ)日(ひ)神(かみ)・大禍津(おおがまつ)日(ひ)神(かみ)が出現をした。また禍を直そうとして生まれた神は神禍毗(かんなび)神(かみ)、大直毗(おおなび)神(かみ)、伊豆能売(いずのめ)の三神。水の底です過ぎ生れた神は底筒之男(そこつつのおとこ)神(かみ)、底津(そこつ)綿津(わたつ)見(み)神(かみ)、水の中程で生まれた神は中筒之男(なかつつのおとこ)神(かみ)、中津(なかつ)綿津(わたつ)見(み)神(かみ)。また水面で漱ぎ生まれた神が上筒之男(うえつつのおとこ)神(かみ)、上津(うわつ)綿津(わたつ)見(み)神(かみ)が生まれた。それぞれの神々は氏族の祖先神に底、中、上筒之男神は住吉三座の大神になった。最後に『古事記』の源流になった三貴公子が左から天照大神・右目から月読命が鼻から建速須佐之男(すさのをのおとこ)命が生まれた。】★『古事記』には神宮皇后の新羅征伐に記されている住吉神は。
【この国を統治される御子は、皇后の体内におられる。御子は男女の分けの問いに「男子である」のお告げ、この神託の御心の問いに、天照大御神と住吉神三神である。西の国に求めるならば、住吉大神三神と諸神に西征の船に祭、充分な供え物と、大海に浮べて航海すればよいと、お告げがあった。そこで、大神の教えの通り、軍勢を整え、船を並べて、海を並べて航海された時に、海の魚の大小、全て一緒に御船を背負って渡った。すると強い追い風が吹き起こり、御船は波に乗った。その御船に押し進めた大波は新羅の国に寄せあがり、国土の半ばまで来た。その国王は恐れはばかり「今からは天皇の仰せのまま、新羅は天皇の馬の飼育掛となり、毎年船を連ね、船の腹を乾かさず、棹・梶の乾く間もなく、天地のある限り、絶えることなくお仕え申します」と申した。そうした次第で新羅国を御馬飼いと定め、百済国を海彼の屯家を定めた。
そして皇后は、御杖を新羅の国王の城門を衝きて立て、住吉大神の荒(あら)御魂(みたま)が国を守る神として鎮めて、海を渡りなさった。】この様に摂津一ノ宮の住吉大社は『古事記』にも重要な部分に登場し、地域の崇敬を集めた。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

「一ノ宮巡り」伊勢国一ノ宮椿大神社・祭神猿田彦大神・ 三重県鈴鹿市山本町字御旅1871・式内社・旧県社・猿彦神社は三重県では伊勢神宮、二見輿玉神社に次ぎ多

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「一ノ宮巡り」伊勢国一ノ宮椿大神社・祭神猿田彦大神・
三重県鈴鹿市山本町字御旅1871・式内社・旧県社・猿彦神社は三重県では伊勢神宮、二見輿玉神社に次ぎ多くの参拝者が訪れる神社である。創建は垂仁天皇の御世に倭姫に降った神託によって、猿田彦大神の墳墓の近くに「道別大神」として社殿が造営されたことに始まる。記述の初見は天平年間『大安寺伽藍縁起並流記資材長』に見ることが出来、『延喜式神名帳』記載される「椿大神社」に比定される「都波岐神社」と「椿大神社」のどちらかと云うことについての議論も諸説ある。社伝に依れば猿田彦大神の末裔とされる行満大明神は修験道の開祖として役行者を導いたとされ、中世には修験神道の中心になった。現宮司は行満大明神の末裔とされている。明治四年には郷社、昭和二年に県社に、十年には内務省の調査によって、全国役二千社の総本社として「地祇猿田彦大本宮」認定された。総本社としての各地に点在する「椿神社」との関係は明確でない。また椿大神社には吉備真備の奉納としての獅子頭がって、獅子舞発祥の地としても知られている。★『古事記』の猿田彦大神は、天上から天孫ニニギ命が天降りをしょうとした時に、天の八衢(ちまた)に立って高天原から葦津中原まで照らす神がいた。その神鼻の長さが七咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、ホオズキのように照り輝いている姿であった。
そこで天照大神と高木神が天宇受売命に、その神を確かめて尋ねてくるように命じられた。その神は国津神で猿田彦と名乗り、天孫ニニギ命が下界に降られると聞き先導しょうとしてやって来たことを伝えた。猿田彦神の先導で無事に葦津中国に着くと、ニニギ命は天宇受売命に猿田彦を送り届けて「猿女君」と名前を付けて仕えるように命じた。そこで天宇受売神は「猿女君」と名乗った。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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