「神仏霊場巡り」大安寺・奈良市中心部にある高野山真言宗の仏教寺院。本尊は十一面観音。開基は聖徳太子と伝える

だ大安寺8 (2)「神仏霊場巡り」大安寺・奈良市中心部にある高野山真言宗仏教寺院。本尊は十一面観音。開基は聖徳太子と伝える。南都七大寺の一つで、奈良時代平城京)から平安時代前半は東大寺興福寺と並ぶ大寺であった。奈良時代の大安寺は東西二基の七重塔をはじめとする大伽藍を有し、東大寺、興福寺と並ぶ大寺院で、「南大寺」の別称があった。南都七大寺のなかでも、七重塔が建っていたのは東大寺と大安寺のみである。奈良時代の大安寺には、東大寺大仏開眼の導師を務めたインド僧・菩提僊那をはじめ歴史上著名な僧が在籍し、日本仏教史上重要な役割を果たした寺院であった。しかし、平安時代以後は徐々に衰退し、寛仁元年(1017)の火災で主要堂塔を焼失して以後は、かつての隆盛を回復することはなかった。現存する大安寺の堂宇はいずれも近世末~近代の再建であり、規模も著しく縮小している。奈良時代にさかのぼる遺品としては、8世紀末頃の制作と思われる木彫仏九体が残るのみである。大安寺の歴史については、正史『日本書紀』『続日本紀』の記述のほか、天平19年(747)作成の「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」が主なよりどころとなっている。「資材帳」によれば、大安寺の起源は聖徳太子が今の奈良県大和郡山市に建てた熊凝精舎であり、これが移転して、「百済大寺」「高市大寺」「大官大寺」と移転と改称を繰り返し、平城京遷都とともに寺も新都へ移転して「大安寺」となったという。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

 

 

「神仏霊場巡り」帯解寺・奈良市今市町にある華厳宗の寺院。本尊は地蔵菩薩。安産祈願の寺として知られ、山号も子安山である。寺伝では、元は霊松庵といい、

た帯解寺8

「神仏霊場巡り」帯解寺・奈良市今市町にある華厳宗の寺院。本尊は地蔵菩薩。安産祈願の寺として知られ、山号も子安山である。寺伝では、元は霊松庵といい、空海の師である勤操によって開かれた巌渕千坊の一つであったという。長らく世継ぎに恵まれなかった文徳天皇后の染殿皇后(藤原明子)が当寺にて祈願をしたところ、惟仁親王(後の清和天皇)が生まれたことから、天安二年(858年)、文徳天皇の勅願により伽藍が建立され、勅命により帯解寺と名乗るようになったという。以来、安産・子授け祈願の寺として朝野を問わず篤い信仰を集めるようになった。江戸時代には、江戸幕府第三代将軍・徳川家光に世継ぎがなく、側室の御楽の方が当寺にて祈願したところ、竹千代丸(四代将軍・徳川家綱)を安産した。

※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

「「神仏霊場巡り」大聖寺・京都市上京区にある寺院。花の御所、すなわち室町幕府の跡地の一部を占める

だ大聖寺門跡1

「神仏霊場巡り」大聖寺・京都市上京区にある寺院。花の御所、すなわち室町幕府の跡地の一部を占める。宗旨は臨済宗系の単立。山号は岳松山。本尊は釈迦如来。御寺御所とも称する、天皇家ゆかりの尼門跡寺院である。非公開のため拝観不可。開基は無相定円禅尼。無相定円は俗名を日野宣子といい、足利義満正室・日野業子の叔母であり、光厳天皇の妃である。同人は貞治七年(1368年)、光厳天皇の法事が天龍寺で行われた際、春屋妙葩を導師として落飾(出家)した。足利義満は花の御所(足利将軍邸)内の岡松殿に無相定円を住まわせた。無相定円が永徳2年(1382年)に没した後、岡松殿を寺にしたのが大聖寺である。寺号は無相定円の法名に因み、山号の岳松山は岡松殿に由来する。寺はその後、長谷(ながたに、現・左京区岩倉長谷町)に移転し、さらに文明十一年(1479年)には毘沙門町(現・上京区上立売通寺町西入る)に移転した。寺は延宝元年(1673年)に焼失し、元禄十年(1697年)に現在地に再興された。現在地はもと聖護院のあったところで、同院が延宝三年(1675年)に焼失し、現在の左京区に移転した跡地に大聖院が再興されたものである。大聖寺に訪れ朱印を玄関から入った所で玄関先でお願いをした。境内、堂内の拝観は出来ない。応対に女僧が受付してくれた。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

「神仏霊場巡り」大原野神社・西山連峰の南に位置する大原野神社は『延喜式』神名帳には式外社であるが、二二社

お大原野神社6 (2)
「神仏霊場巡り」大原野神社・西山連峰の南に位置する大原野神社は『延喜式』神名帳には式外社であるが、二二社に列せられている。当社の創建については延暦三年(784)長岡京遷都の際に藤原氏出身の桓武天皇の后、藤原乙牟漏が、氏神の春日社への参詣が容易になくなり、この地に春日明神を勧請したことに始まる。平安遷都後に嘉祥三年(850)左大臣藤原冬嗣が社殿を造営して、地名をとって大原野神社と称した。その後藤原順子が行啓、円融天皇が行幸と共に摂関家をはじめとする崇敬が高まり繁栄をした。寛弘二年(1005)一条天皇の中宮彰子の行啓は有名で、父藤原道長を始め、紫式部らが供奉し、華やかな行列に目を見張らせた。境内の長い参道を行くと右手に奈良の猿沢の池に似せた鯉沢池があって両側に深い樹林の奥に赤い本殿が見える。訪れる人もまばらで静寂が辺りを包んでいる。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

「「神仏霊場巡り」宝鏡寺・京都市上京区にある禅宗寺院。宗旨は臨済宗系の単立。近世には皇女が入寺する尼門跡寺院であっ

ほ宝鏡寺2

「「神仏霊場巡り」宝鏡寺・京都市上京区にある禅宗寺院。宗旨は臨済宗系の単立。近世には皇女が入寺する尼門跡寺院であった。光厳天皇皇女の華林宮惠厳は、無学祖元(鎌倉円覚寺開山)の弟子にあたる尼僧・無外如大が京都の五辻大宮(現・京都市上京区)に開いた尼五山筆頭景愛寺の六代寺持であった。 室町時代の応安年間(1368年 - 1375年)、伊勢の二見浦にて漁網に掛かった聖観世音菩薩を景愛寺子院の建福尼寺に安置し、建福寺を改めて宝鏡寺と称した。これには、足利義政の娘が文亀年間(1501 - 1504年)に再興したとする別伝もある。足利義満の時代、隣地には小川御所があったとされ、義満母の紀良子、義満実弟の満詮の別宅だったというが、応仁の乱(1467年-1477年)の折、戦禍から後土御門天皇、足利義政室の日野富子が逃げ込んでいた。後に後嗣を巡る争いで御殿は焼かれてしまい、跡地は宝鏡寺に取り込まれた。正保三年(1646年)、後水尾天皇皇女の理昌女王(久厳尼)が入寺して以降、代々の皇女が入寺する尼門跡寺院となり、土地の名前から「百々御所」(どどのごしょ)とも呼ばれたが、天明8年(1788年)焼失。以降再建された現在の建物群は尼門跡寺院の構成をよく伝えている。宝鏡寺に訪れても境内や堂内は拝観できない。朱印も寺院の脇から入った所でしてもらった。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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