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『歴史の時々変遷』3“丁未の乱” 飛鳥時代に起きた内乱である。丁未の変、丁未の役、物部守屋の変ともいう。

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『歴史の時々変遷』3“丁未の乱”
飛鳥時代に起きた内乱である。丁未の変、丁未の役、物部守屋の変ともいう。仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が乱を起こして、滅ぼされた。経緯は587年7月、蘇我馬子は遂に群臣と謀り、物部守屋追討軍の派遣を決定した。馬子は厩戸皇子、泊瀬部皇子、竹田皇子などの皇族や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡の守屋の館へ進軍した。 大和国から河内国へ入った蘇我陣営の軍は餌香川の河原で物部軍と交戦し、戦後の河内国司の言によれば双方合わせての戦死者は数百に上ったという。守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。その軍は強盛で、守屋は朴の木の枝間によじ登り雨のように矢を射かけた。皇子らの軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。これを見た厩戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓った。馬子は軍を立て直して進軍させた。迹見赤檮が大木に登っている守屋を射落として殺した。寄せ手は攻めかかり、守屋の一族らを殺し、守屋の軍は敗北して離散した。守屋の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。厩戸皇子は摂津国に四天王寺を建立した。物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子のものになった。馬子の妻が守屋の妹であるので物部氏の相続権があると主張したためである。また、半分は四天王寺へ寄進された。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

『歴史の時々変遷』2“辛亥の変”(継体・欽明の内乱) 辛亥の変(継体・欽明の内乱)は一応仮説上内乱。

継体3

『歴史の時々変遷』2“辛亥の変”(継体・欽明の内乱)
辛亥の変(継体・欽明の内乱)は一応仮説上内乱。当時の歴史の記録っした文献資料において符合しない点が多いが、6世紀前半の継体天皇崩御とその後の皇位継承を巡り発生したと思われている。発生した年が継体天皇の崩御した時とする、辛亥の年(西暦531)時を定めて、辛亥の変と呼ぶ。『日本書紀』によれば継体天皇の崩御の年次が『百済本記』の説を採用し、辛亥の年とする説、一方異説として甲寅の年(534)と説もある。甲寅の年は次の安閑天皇の即位した年とされ、これは通常継体の没後、2年間の空白があったと解釈されている。まず最初に登場した継体の崩御丁末の年(527)、欽明天皇の即位が辛亥の年(531)として4年間の空白に、安閑・宣化天皇の在位を想定する説がある。「二朝並立」とそれに伴う全国的な内乱が推測されると言う説と、安閑天皇の崩御の年の誤りとすれば、辛亥の年に宣化天皇が崩御し、欽明天皇が即位するれば、辻褄が合う。辛亥の変の推測は皇位継承が年表の記述と符合しないので、全国的な内乱が生じたと言うことから出てきている。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる

『歴史の時々変遷』1“磐井の乱” 磐井の乱、6世紀半に北部九州の大豪族筑紫磐井がヤマト王権

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『歴史の時々変遷』1“磐井の乱”
磐井の乱、6世紀半に北部九州の大豪族筑紫磐井がヤマト王権の国土統一に抗して起こした乱。当寺国債関係とも不可分のもでもある。8世紀代の措辞を多用し、漢籍による文飾が著しい『日本書紀』の記述は、乱を527年(継体天皇21)528年とするを含めて批判的検証する。また一方の一般的説として527年継体朝時代に朝鮮半島南部に出兵しようと近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫公磐井が阻み、翌528年11月物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、または王権の主権争い。この反乱には朝鮮半島が絡んだ利権と主権争いが有ったとみられている。磐井の乱の文献は『日本書紀』に限られている。その他の記述として『筑後国風土記』や『古事記』『国造本紀』もの簡潔な記録が残ってる。527年(継体21)真偽のほどは別にして、記述による経緯を遡って見ると、ヤマト王権の近江毛野は6万の兵を率いて、新羅に向かった。目的は新羅に奪われた南加羅を回復する為だった。任那に向かったことを知った、新羅は九州筑紫の有力豪族磐井に賄賂を贈って、ヤマト軍の阻止妨害を要請した。呼応するかのように、磐井は火の国、豊の国を制圧し、倭国と朝鮮半島の結ぶ海路を封鎖した。事の時朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍を阻み交戦となった。ヤマト王権では平定軍の派遣について協議をし、継体天皇が大伴金持・物部麁鹿火・巨摩男人らに将軍の人選諮問したところ、物部麁鹿火が推挙された。528年反乱軍の磐井と、麁鹿火率いるヤマト王権軍が筑紫三井付近で交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。敗北した磐井は『日本書紀』によれば、麁鹿火に切られた説と『筑後国風土記』には豊前の方に逃げ込み山中で死んだ説がある。磐井側に付いたものは連座を恐れ、屯倉をヤマト王権へ献上し、死罪を免れたと記されている。一説によるとすでに、この頃にはヤマト王権とは別な九州王朝が有ったとする考え方もある。いずれにせよ確実な証拠もなく推測の域を出ない。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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