「温故知新」        川村一彦

歴史は語る。

京都十六社巡り・長岡天満宮・祭神・菅原道真公・長岡京市天神/山城国乙訓郡長岡の地は、昔桓武天皇が平城京より平安京に御遷都になるまでの皇都長岡京の跡であり、

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京都十六社巡り・長岡天満宮・祭神・菅原道真公・長岡京市天神2-15-13・
山城国乙訓郡長岡の地は、昔桓武天皇が平城京より平安京に御遷都になるまでの皇都長岡京の跡であり、又当天満宮の御祭神菅原道真公が在原業平と共に、しばしば遊んで詩歌管絃を楽しまれたところであります。道真公が太宰府に左遷せられました時この地にお立ち寄りになり「吾が魂、長くこの地に留まるべし」と名残を惜しまれた縁故によって公御自作の木像を祀ったのが、当宮の創立であります。以来、皇室の崇敬殊に厚く、元和九(1623)年には八條宮の御領地となり、度々の御寄進・御造営・御殊遇をうけ、寛永十五(1638)年には、参道をはさんで南北にひろびろと広がり、西山の翆緑を映す八條ヶ池が築造されました。中堤の太鼓橋は加賀・前田候の寄進になると伝えられる名橋であり、両側には樹齢百五十年余、高さ三米に達する「キリシマツツジ」が多数植えられており、新緑に映える真紅のキリシマの見事さは、まさに我が国随一のものと称されております。

「西国四十九薬師巡り」新薬師寺・華厳宗・奈良市高畑町・霊験あらた新かなお薬師の寺。新薬師寺は、聖武天皇が盧舎那大仏建立中に病を患われ、病平癒のため

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「西国四十九薬師巡り」新薬師寺・華厳宗・奈良市高畑町・霊験あらた新かなお薬師の寺。新薬師寺は、聖武天皇が盧舎那大仏建立中に病を患われ、病平癒のため、天平十九年(七四七)に光明皇后によって建立された。新薬師寺の「新」は新しい古いの「新」ではなく、霊験あらた(新)かなお薬師様をお祀りしたとして、名付けられました。創建当時には、四町四方(一万二千坪)の境内に金堂、西塔、東塔等伽藍が並ぶ大寺院で、寺に住む僧一百人と記録がある。三十三年後の宝亀十一年(七八〇)に、西塔に落雷。瞬時に炎上、現本堂が焼け残ったのです。鎌倉時代には、解脱、明恵両上人が一時当寺に住んで再興に意をつくされ、東門、南門、地蔵堂、鐘楼の諸堂が建立されました。徳川時代には、家康筆の印璽をもって寺領百石が与えられ、全国から参詣・参籠する人々数知れずと伝えられています。往年の盛時には及ばないまでも、その名残りを保って現在に至っています。薬師如来(平安初期・国宝)は一本彫成で、平安初期の代表作です。特に肩から胸に流れる衣紋は素晴らしく、大きく見開いた切れ長の目、堂々たる体躯、まさに密教精神の具現といえます。古来より眼病、耳病の仏として霊験あらた新かです。この仏の前に立つとき、誰もがいいしれぬ威圧と荘厳を感じることでしょう。十二神将(天平時代・国宝)は、薬師如来の家来であり、剣、弓、矢などそれぞれの武器を持って威嚇する姿は、畏敬にあたいします。土の素材を生かして顔面の筋肉の起伏がデリケートに表現されています。造立された当時は群青、緑青、朱、金箔などで彩られた実に華麗なものであったと思われます。十二神将は、それぞれ干支の仏であり、ご自分の干支の神将にお参りされる方も、多くいると言う。

「奈良古社寺巡り」、氷室神社・祭神・闘鶏稲置大山主命・大鷦鷯命・額田大仲彦命 奈良県奈良市にある神社。式内小社(論社)、旧社格は村社、神饌幣帛料供進社。

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「奈良古社寺巡り」、氷室神社・祭神・闘鶏稲置大山主命・大鷦鷯命・額田大仲彦命
奈良県奈良市にある神社。式内小社(論社)、旧社格は村社、神饌幣帛料供進社。由緒は「氷室神社縁起」絵巻に記されており、また『続日本紀』や『元要記』にも散見される[2]。和銅3年(710年)、元明天皇の勅命により、吉城川上流の月日磐に氷神を奉祀し(下津岩根社)、厳寒に結氷させたものを氷室に蓄え、翌年に平城京へ献氷させる制度が創始された。翌和銅4年(711年)6月1日に初めて献氷の勅祭が興され、以降毎年4月1日より9月30日まで平城京に氷を納めた。奈良朝7代、70年余りの間はこの制度は継続したが、平安遷都後は廃止され、貞観2年(860年)、清和天皇の時期になって、現在の地に奉遷され、左右2神を併せ三座となった。社殿が建立されたのは建保5年(1217年)とされている。以来、春日大社の別宮に属し、式年費用や営繕費、祭礼費などは春日社、興福寺の朱印高2万石、および社頭所禄、三方楽所料2千石などの一部によって行われたが、明治以降はこの制度も廃止され、氏子と冷凍氷業界の奉賛により維持される形になっている。春日造の一ノ鳥居が、登大路に面する[2]。鳥居を入ると両側に石灯籠が立ち並び、右手に手水舎、左手に境内社の祓戸社がある[。右手の石灯籠、手水舎の背後には、鏡池と枝垂れ桜がある。正面石段を登ると表門(四脚門)と東西廊がある。

「奈良古社寺巡り」東大寺二月堂は本十一1面観音菩薩・、奈良県奈良市の東大寺にある、奈良時代(8世紀)創建の仏堂。現存する建物は1669年の再建で、日本の国宝に指定されている。

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「奈良古社寺巡り」東大寺二月堂は本十一1面観音菩薩・、奈良県奈良市の東大寺にある、奈良時代(8世紀)創建の仏堂。現存する建物は1669年の再建で、日本の国宝に指定されている。奈良の早春の風物詩である「お水取り」の行事が行われる建物として知られる。「お水取り」は正式には修二会といい、8世紀から連綿と継続されている宗教行事である。二月堂は修二会の行事用の建物に特化した特異な空間構成をもち、17世紀の再建ながら、修二会の作法や習俗ともども、中世の雰囲気を色濃く残している。本項ではおもに二月堂の建築と本尊について述べる。修二会の行事の詳細については、別項「修二会」を参照。東大寺全般については「東大寺」「東大寺の歴史」の項を参照のこと。二月堂は、東大寺金堂(大仏殿)の東方、坂道を上り詰めた丘陵部に位置する、十一面観音を本尊とする仏堂である。すぐ南には三月堂の通称で知られる法華堂がある。これらの堂が所在する一画を「上院」と称し、大仏開眼以前から存在した、東大寺の前身寺院があった場所である。東大寺は治承4年(1180年)の平重衡の兵火と、永禄10年(1567年)の三好・松永の兵乱とにより、創建時の建物の大部分を失っている。二月堂はこれらの兵火では類焼をまぬがれたが、寛文7年(1667年)、修二会の満行に近い2月13日に失火で焼失。現存する二月堂はその直後の寛文9年(1669年)、江戸幕府の援助を得て、従前の規模・形式を踏襲して再建されたものである。東大寺の寺伝では、修二会は実忠によって始められたもので、大仏開眼供養と同年の天平勝宝4年(752年)に初めて行われたとされ、二月堂の創建もこの時とされる。堂の創建については同時代の史料に言及がなく、確実なことは不明である。二月堂や南隣の法華堂付近は、大仏開眼以前から東大寺の前身にあたる福寿寺や金鐘寺などの寺院が存在したところであり、二月堂前の仏餉屋(ぶっしょうのや)の解体修理に伴う発掘調査によって、前身寺院の遺構や8世紀前半の瓦が検出されている。

「遺跡探訪」一乗谷朝倉氏遺跡は、福井県福井市城戸ノ内町にあった戦国時代の遺跡(日本の城)である。戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。

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「遺跡探訪」一乗谷朝倉氏遺跡は、福井県福井市城戸ノ内町にあった戦国時代の遺跡(日本の城)である。戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる。遺跡全体が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けている。福井市街の東南約10キロメートル、九頭竜川水系足羽川支流である一乗谷川下流沿いの細長い谷あいに築かれた戦国時代の城下町と館跡および背後の山城が一乗谷朝倉氏遺跡である。一乗谷は、東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群であった。また、三国湊に続く足羽川の水運や大野盆地に通じる美濃街道、鹿俣峠を抜け越前府中へ続く街道などが通り交通の要衝でもあった。さらに、一乗谷は北陸道より数キロメートル東寄りに位置するため、朝倉街道が整備され北陸道と連絡した。一乗谷の南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7キロメートルの「城戸ノ内」に、朝倉館(武家屋敷)をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に整備された道路の両面に立ち並び、日本有数の城下町の主要部を形成していた。軍記物である『朝倉始末記』には1471年(文明3年)に戦国初代朝倉敏景(孝景・教景)が黒丸館(福井市黒丸町)から本拠を移したと記されている。しかし、「朝倉家伝記」や「朝倉家記」などの新資料によると、朝倉氏は南北朝時代には、一乗谷を本拠にしていたようである。文明年間には重臣が一乗谷に集住するようになり、また、足利将軍家の分家である鞍谷公方などもいたことから応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花した。このため北ノ京とも呼ばれた。戦国四代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口一万人を超え、越前の中心地として栄えていた。1499年(明応8年)には足利義稙が朝倉貞景を頼り来訪する。1567年(永禄十年)には戦国五代朝倉義景が足利義秋(1568年(永禄11年)4月一乗谷で義昭に改名)を安養寺に迎える。義景は義秋を歓待するが、同年7月24日、義昭は上洛を果たすため織田信長を頼って美濃国に出国する。1573年(天正元年)刀禰坂の戦いに大敗した義景は一乗谷を放棄し大野へ逃れる。翌日、信長の軍勢によって火を放たれ一乗谷は灰燼に帰した。

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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