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「浪速史跡巡り」豊國神社(ほうこくじんじゃ、新字体:豊国神社、旧字体:豐國神社)は、大阪府大阪市中央区大阪城に鎮座する神

と豊国神社4

「浪速史跡巡り」豊國神社(ほうこくじんじゃ、新字体:豊国神社、旧字体:豐國神社)は、大阪府大阪市中央区大阪城に鎮座する神社。京都府京都市東山区に鎮座する豊国神社の大阪別社として創建された。のちに京都・豊国神社から独立して豊國神社に改称。京都・豊国神社が訓読み(とよくに)で、豊臣秀吉のみを主祭神とするのに対して、当社は音読み(ほうこく)で、豊臣秀頼、豊臣秀長も配祀する。現在の鎮座地である大坂城二の丸は陸軍省の所管だったため、現在の大阪市北区中之島においての創建となったが、のちに城内(現・大阪城公園)へ遷座された。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

『浪速史跡めぐり』難波神社・大阪都心を貫く御堂筋に面し、博労稲荷と呼ばれる「難波神社」の祭神は仁徳天皇、素盞鳴命、倉稲魂尊

な難波神社3 (2)

『浪速史跡めぐり』難波神社・大阪都心を貫く御堂筋に面し、博労稲荷と呼ばれる「難波神社」の祭神は仁徳天皇、素盞鳴命、倉稲魂尊で社伝に拠れば「反正天皇」の時代に遡るという。
河内国丹比柴蘺宮に遷都したときに同地の創建し、朱雀天皇の摂津の国の総社として大江の坂平野郷に遷したという。その後大阪城築城のときに現在の地に移された。所が第二次世界大戦で焼失し昭和四十九年に再建されたという。
摂社に神社の西側にある、博労稲荷が浪速の町が栄えるに従って仙波の豪商を中心となって稲荷信仰が増えていった。古記録にも「稲荷社」「稲荷宮」として呼ばれた。
末社の金刀比羅神社があって由来が不明であるが江戸時代より祀られてる。
又末社十四柱相殿神社は災害、戦災などで移転併合で合わせて合祀されたようである。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

『浪速史跡めぐり』安倍晴明神社・阿倍野筋を南

あ安倍晴明神社E

『浪速史跡めぐり』安倍晴明神社・阿倍野筋を南に阪堺線の松虫駅を南に行くと通りを少し入った所に「安倍晴明神社」がある。阿倍野は古代は豪族の阿倍氏が大化の改新のときに、移住して、氏神阿倍社と氏寺阿倍野寺千軒坊と伝えられ大寺を建立したと言う。平安時代には熊野退社への参詣が盛んになって、阿倍野王子神社と共に栄え、天文博士安倍晴明公もこの地で誕生したという。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

『浪速史跡めぐり』四天王寺の庚申さん・庚申堂の由来に拠れば、今から千三百年前の文武天皇の時代に疫病が日本中に蔓延し

こ天王寺庚申さん

『浪速史跡めぐり』四天王寺の庚申さん・庚申堂の由来に拠れば、今から千三百年前の文武天皇の時代に疫病が日本中に蔓延した。薬草や医療の治療の甲斐なく、四天王寺の高僧豪範の祈祷などが行なわれたが一向に効き目無く、ひたすら祈り続けたところ天宝元年(701)庚申年の一月七日の庚申の日に、年の頃なら十六歳くらいの童子が現れて「帝釈天が、汝の人の悩みを憐れむに至誠を感じ除災無病の方便」のお告げがあった。そのお告げに随い「青面金剛童子」を祀った。効き目があってか疫病災難は退散し庚申年の七日の庚申の日をもって庚申信仰が始った。四天王寺の庚申堂は庚申日以外には閑散として、縁日には護摩焚きが行われ蒟蒻、七色菓子などの出店が出て「大釜で煮た蒟蒻」が売られている。境内には「三猿堂」があって木彫りの「見ざる・聞かざる・言わざる」が祀られてる。「庚申に日」には心の中で願いを掛けて、念じながら北を向いて黙って食べる」とご利益があると言い伝えらてる。庚申堂内には普通の寺院と違って、仏像らしき像は安置されていない。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

『浪速史跡めぐり』御霊神社・大阪は都心は淡路町に御霊神社、祭神は天照大神荒魂、津布良彦神、応神天皇、源正霊神

ご御霊神社3
『浪速史跡めぐり』御霊神社・大阪は都心は淡路町に御霊神社、祭神は天照大神荒魂、津布良彦神、応神天皇、源正霊神(鎌倉五郎景政公霊)神社の社伝拠れば古くより大阪市の船場、愛日、中之島、土佐堀、江戸堀、京町堀、靭、阿波座、薩摩堀立売堀、長堀の西部他、摂津国津村郷の産土神として鎮座、古くは海辺にしてぬかるみ芦萩繁殖し円江、円形の入り江をなしていた。その地に瀬織津比売神、地主神たる津布良彦神、津布良媛神、奉祀し円神詞と言ったのがこの神社の古名である。御神威高く、上古、天皇のご即位大嘗祭に続く八十島祭を預かり給もうた。豊臣秀吉の大坂城築城後、各諸大名の寄進相次ぎ、特に石見藩亀井玆矩が屋敷地を割いて寄進した。文禄三年(一五九四)に源正霊神を合祀して現在の地に遷座した。その後、御霊神社と改称された、江戸時代には大阪城大家老が巡見の折り、参拝するのが慣例となった。境内には「文楽座之跡」の碑と御霊文楽座跡がある。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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