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「西国四十九薬師巡り」家原寺・高野山真言宗別格本山 通称・家原の文殊さん、智慧文殊・大阪府堺市西区家原寺町●行基菩薩生誕のご実家。

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「西国四十九薬師巡り」家原寺・高野山真言宗別格本山 通称・家原の文殊さん、智慧文殊・大阪府堺市西区家原寺町●行基菩薩生誕のご実家。寺の歴史は古く、今から千三百年昔、奈良時代に生誕されて、後に人々から菩薩と慕われた人がいた。名僧「ぎょう行き基(六六八~七四九)」である。行基様は生誕のご実家を、七〇四年、三十七歳のときにお寺として開山された。山号の一乗山とは、菩薩修行記から引き、菩薩として修行を行なう所という意味です。寺号のえ家ばら原じ寺は、家とは実家、原とは母の腹をさすと伝えられている。つまり、両親の菩提を弔うことと、恩に報いることだというのである。本尊は文殊菩薩で、日本で文殊菩薩を祀られた最初といわれている。菩提僊那(七〇四~七六〇年、インドから来た東大寺大仏開眼導師)ゆかりの文殊菩薩として信仰を集め、その霊験は古来より国内随一の名声を誇り、この文殊様は「智慧文殊」と呼ばれ、各種試験を志望する人々や学生たちの合格祈願で、お参りの人々が後を絶たず、祈願ハンカチという楽しい祈願の方法も人気があり、本堂の文殊殿は一見の価値がある。お薬師さんを祀る薬師堂は、文殊殿の東側にあり、広い境内の中でもひときわ大きな「やまもも」の木が目印で、薬師堂は朱塗りの小さなお堂である。中は一般には公開されていません。堂内には厨子を収めた内庫式の壇が祀られている。厨子の中には、薬師如来坐像と両側に日光菩薩、月光菩薩、それを囲むように十二神将が安置されている。何度か修復の跡があり、江戸中期の修復と言われ、この薬師さんも長い間人々に信仰されてきたに違い考えらえている。というのも、もう一つの薬師さんがあるからで、家原寺から南へ徒歩三十分程の所に、行基様のご母堂様の実家という奥の院「けい華りん林じ寺」がある。本尊の薬師如来は、地元の人々から「こ子やす安薬師」「こやすさん」と親しまれ、安産・健康の祈願をしている。そして、家原寺の薬師さんを「すこやかさん」と呼びならわしている。

「西国四十九薬師巡り」久安寺・高野山真言宗・大阪府池田市伏尾町・●近衛天皇の勅願所として再興。久安寺は、神亀二年(七二五)に僧行基

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「西国四十九薬師巡り」久安寺・高野山真言宗・大阪府池田市伏尾町・●近衛天皇の勅願所として再興。久安寺は、神亀二年(七二五)に僧行基によって開かれたと伝えられ、天長年間(八二四~三四)には、弘法大師が真言密教の道場として中興、安養院と呼んでいた。久安元年(一一四五)には、賢実上人が近衛天皇の勅願所として再興、楼門、金堂、搭などの伽藍と、四十九の坊舎を建立し、久安寺と号した。豊臣秀吉はここで月見や茶会を楽しんだと言われている。そのときの手植のかや榧の木や腰掛石が残されている。江戸中期には、歌人の平間長雅がこの寺に在住し、寺の興隆に力を尽くしました。現在は霊園事業を基に昭和の興隆事業を起こし、曼荼羅思想によって諸堂や庭園を整備している。お参りは、国の重文に指定されている楼門から始まり、楼門は久安元年に建立されたもので、近衛帝の勅願額を掲げている。昭和三十四年(一九五九)に解体調査をされ、室町初期に大修理されたことが分かり、室町の彫刻である金剛仁王尊を安置している。楼門をくぐれば、苔むす石垣、楓の老木が古刹の雰囲気を漂わせ、参拝の方々を迎えます。楼門から北に三百五十メートルの参道が金堂跡まで続いています。一万坪を越える境内には、季節の花々が咲き乱れ、趣き深い庭園が広がる。薬医門の奥には、小坂院が本坊として残っています。小坂院は、賢実上人が再興した四十九の坊舎の一つで、往時を偲ぶことができる。

「西国四十九薬師巡り」浄瑠璃寺・真言律宗・京都府木津川市加茂町西小札場にある真言律宗の寺院。本尊は阿弥陀如来と薬師如来

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「西国四十九薬師巡り」浄瑠璃寺・真言律宗・京都府木津川市加茂町西小札場にある真言律宗の寺院。本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基は義明上人である。寺名は薬師如来の居所たる東方浄土「東方浄瑠璃世界」に由来する。本堂に九体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺の通称があり、古くは西小田原寺とも呼ばれた。緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構として貴重である。浄瑠璃寺の創立については、寺に伝わる『浄瑠璃寺流記事』が唯一の史料である。以下、『流記事』の記載に沿って初期の沿革を記す。永承二年(1047年)、義明上人により本堂が建立され、檀那は阿知山大夫重頼であった。それから干支が一巡した60年後の嘉承二年(1107年)、本仏の薬師如来を「西堂」に移したとの記録がある。中世から近世にかけて浄瑠璃寺は興福寺一乗院の末寺であったが、明治初期、廃仏毀釈の混乱期に真言律宗に転じ、奈良・西大寺の末寺となった。

「西国四十九薬師巡り」元興寺・真言律宗 通称・極楽坊・奈良市中院町●わが国最初の本格的伽藍寺院の伝統、旧奈良市街の中心部

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「西国四十九薬師巡り」元興寺・真言律宗 通称・極楽坊・奈良市中院町●わが国最初の本格的伽藍寺院の伝統、旧奈良市街の中心部「さるさわ池」の南方は、「ならまち」と呼ばれる古い町並みがのこ遺る地域です。その一画に世界文化遺産「古都奈良の文化財」のひとつに登録された元興寺がある。元興寺は「佛法元興之場、聖教最初之地」と称されるように、わが国で最初の本格的伽藍寺院であった法興寺(飛鳥寺)を前身とします。法興寺は、崇峻天皇元年(五八八)、奈良県高市郡の飛鳥の地に、蘇我馬子や聖徳太子が中心となって、「佛法興隆」を願って開創された蘇我氏の氏寺でした。その後、大化改新等による蘇我氏の滅亡、律令制度の整備、積極的仏教政策が行われる中で、大寺に準ぜられ、藤原京の四大寺のひとつに列せられることとなった。和銅三年(七一〇)、平城京への遷都とともに、旧都の諸寺院が移されましたが、法興寺は、養老二年(七一八)に官大寺の元興寺として、この地に新築移転されました。すなわち、「ふるさと古郷のあすか飛鳥」と「なら平城のあ明す日か香」が生まれ、飛鳥寺は「本元興寺」「新元興寺」の二寺並立となり、法興寺の呼称は元興寺に統一されていきました。元興寺の新たな大伽藍は、春日山系の西南台地、平城京の東(外京)、さるさわ池をはさんで興福寺の南に営まれました。金堂(弥勒仏)、講堂(薬師仏)、東大塔院(五重塔)、西小塔院(百万塔)、僧坊等からなる結構な伽藍は、鎮護国家仏教を象徴するもので、三論・法相を学問する場でもありました。平安時代半ばまで、南都七大寺の重要な位置を占めた元興寺も、政治経済の変化により寺運が衰退し、伽藍・堂塔の解体・分散を余儀なくされましたが、霊場寺院へと変化しながら命脈を保つことができた。その中心が僧坊に遺された「智光曼荼羅」で、奈良時代の学僧智光法師が感得した極楽浄土図への信仰であった。後に「浄土三曼荼羅」の随一とされるこの図は、単に浄土教のみならず、密教や諸宗の教学上も注目され、僧坊は大改築されて、極楽堂(曼荼羅堂)、禅室(春日影向堂)となり、室町時代以降は、真言と戒律を重んじる霊場となり、庶民の信仰の聖地とされてきたことを、多くの文化財によって知ることができる。


「西国四十九薬師巡り」法界寺・京都市は伏見区日野にある寺院で真言宗醍醐寺派別格本山である。

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「西国四十九薬師巡り」法界寺・京都市は伏見区日野にある寺院で真言宗醍醐寺派別格本山である。本尊は薬師如来(秘仏)開基は伝教大師(最澄)とされている。創建は平安後期永承六年(1051)文学博士で出世した日野資業が薬師如来を安置する堂を建てたのが法界寺の始まりという。代々日野家に伝わる、伝教大師作、三寸の薬師像を納入した。草創期には別の説がある。日野資業の四代前の藤原家宗弘仁十三年(882)最澄自作の薬師像を本尊として、最澄開基といて藤原氏の一族の氏寺とした。浄土真宗の開祖の親鸞が承安三年(1173)日野有範の子として法界寺に生まれた。また「方丈記」の著者の鴨長明の住んだ地でもある。平安後期には阿弥陀信仰の高まちや、末法思想の普及に伴い法界寺に阿弥陀堂が建てられた。鎌倉時代初期には承久三年(1221)兵火に遭って焼失し、その後再建された。

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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