『河内史跡巡り』慈願寺は、大阪府八尾市本町にある真宗大谷派の寺院である

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『河内史跡巡り』慈願寺は、大阪府八尾市本町にある真宗大谷派の寺院である。親鸞の東国布教の際、那須資村が帰依して信願房法心と号した。二十四輩のひとりでもある法心は、下野国那須郡志賀崎に念仏道場を開き、これを慈願寺と名付けた。その後、法心は親鸞とともに上洛し、終始親鸞に仕えた。親鸞の死後、親鸞の遺命を受けて河内国渋川郡久宝寺村に建立されたのが当寺である。本願寺の東西分裂期に顕証寺と対立し、江戸時代初期に古大和川(現在の長瀬川)東岸の若江郡八尾へ移転した。

「京都古社寺探訪」新日吉神宮(いまひえじんぐう)は、京都府京都市東山区にある神社。旧社格は府社。現在は神社本庁に属さない単立神社となっている。旧称は新日吉社

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「京都古社寺探訪」新日吉神宮(いまひえじんぐう)は、京都府京都市東山区にある神社。旧社格は府社。現在は神社本庁に属さない単立神社となっている。旧称は新日吉社、明治以降は新日吉神社。主祭神・大山咋命・大己貴命・玉依比売命・大山咋命荒魂・田心比売命・菊理比売命・玉依比売命荒魂・後白河天皇・相殿・素盞嗚尊・大年神。社伝によれば、永暦元年(1160)後白河上皇の命により、院の御所(法住寺殿)の鎮守社として、比叡山は東坂本の日吉大社から迎え祀ったのが始まりと言う。桃山時代になって秀吉は三十三間堂(蓮華院)方広寺の境内に含められた。新日吉社は現在より南に創建されたと伝えられる。その後、社地を転々とし、現在の社地となったのは、豊国廟が再興された明治三十年(1897)になってからである。昭和三十三年(1958)、後白河天皇を増祀し、翌昭和三十四年(1959)に神社名を現在の新日吉神宮と改めた。


京都古社寺探訪「蛸薬師堂」京都の蛸薬師は永福寺の本尊とされ、奉納される小絵馬

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京都古社寺探訪「蛸薬師堂」京都の蛸薬師は永福寺の本尊とされ、奉納される小絵馬には蛸と着物姿の女が描かれている。本来の永福寺本尊は伝教大師が製作した薬師如来で、水上薬師ないし沢薬師と呼ばれていた。時代を経る毎にこれが誤って蛸薬師と伝えられるようになり、江戸時代の『都名所図会』には既に「蛸薬師は永福寺と号し、円福寺境内にあり」と紹介されていた。その後円福寺は1788年、1864年の大火で類焼し、1883年に三河国岩津村へと移された。この際、岩津村にあった妙心寺が京都へ移され、現在の永福寺となっているが、本尊は変わらず蛸薬師のままになったという。江戸時代に刊行された菊岡沾凉の『本朝俗諺志』には蛸薬師の効能として、蛸の絵馬を書き、物絶をして祈ると疣や痣に効く不思議な効験があると紹介されている。その他、井上頼寿の『京都民俗志』では民家に蛸地蔵尊が祀られていたという話を紹介しており、蛸薬師信仰が民間レベルで浸透していたと考えられている。東京目黒区の蛸薬師は成就院の本尊とされ、慈覚大師(円仁)が自身の眼病平癒のために作ったものに由来すると伝えられている。慈覚大師が唐から帰朝の折に暴風雨に遭い、その際に先の像を海に投じて祈ったところ、無事帰り着くことが叶ったという。その後諸国巡礼の際に肥前松浦で投じた薬師像が蛸に乗って顕現し、小像は慈覚大師の手元に戻ることとなった。目黒で疫病が流行した際に、この小僧を胎内仏として製作した薬師如来が現在の成就院蛸薬師となっている。成就院蛸薬師の効能について、井上喜平治『蛸の国』では蛸を断食して祈ることで吹き出物・疣が治癒すると紹介されている。こうした話は松平定信の『花月草紙』にも紹介されており、民間伝承として広く信仰されていたことが伺える。

『江戸泰平の群像』3・板倉 勝重(いたくら かつしげ)(1545~1624)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての旗本、大名。江戸町奉行

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『江戸泰平の群像』3・板倉 勝重(いたくら かつしげ)(1545~1624)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての旗本、大名。江戸町奉行、京都所司代。板倉家宗家初代。史料では官位を冠した板倉伊賀守の名で多く残っている。優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った裁きで名奉行と言えば誰もが勝重を連想した。板倉好重の次男として三河国額田郡小美村(現在の愛知県岡崎市小美町)に生まれる。幼少時に出家して浄土真宗の永安寺の僧となった。ところが永禄4年(1561年)に父の好重が深溝松平家の松平好景に仕えて善明提の戦いで戦死、さらに家督を継いだ弟の定重も天正9年(1581年)に高天神城の戦いで戦死したため、徳川家康の命で家督を相続した。その後は主に施政面に従事し、天正14年(1586年)には家康が浜松より駿府へ移った際には駿府町奉行、同18年(1590年)に家康が関東へ移封されると、武蔵国新座郡・豊島郡で1,000石を給され、関東代官、江戸町奉行となる。関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)、三河国3郡に6,600石を与えられるとともに京都町奉行(後の京都所司代)に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂城の豊臣家の監視に当たった。なお、勝重が徳川家光の乳母を公募し春日局が公募に参加したという説がある。慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開いた際に従五位下・伊賀守に叙任され、同14年(1609年)には近江・山城に領地を加増され1万6,600石余を知行、大名に列している。同年の猪熊事件では京都所司代として後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した。慶長19年(1614年)からの大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件では本多正純らと共に強硬策を上奏。大坂の陣後に江戸幕府が禁中並公家諸法度を施行すると、朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に当たった。元和6年(1620年)、長男の重宗に京都所司代の職を譲った。寛永元年(1624年)に死去、享年79。

『歴史の時々変遷』(全361回)264” 生駒騒動” 「生駒騒動」江戸時代初期に讃岐高松藩生駒家で起こったお家騒動。重臣が争い、

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『歴史の時々変遷』(全361回)264” 生駒騒動”
「生駒騒動」江戸時代初期に讃岐高松藩生駒家で起こったお家騒動。重臣が争い、生駒家は改易となった。大名としての生駒家は織田信長、豊臣秀吉に仕えた生駒親正にはじまる。四国平定後、親正は讃岐国17万1800石を与えられ、三中老に任じられて豊臣政権に参与した。関ヶ原の戦いでは親正は西軍に与したが、嫡男一正が東軍に参じて戦ったため本領安堵され、親正は一正に家督を譲り隠居、一正の後は子の正俊が襲封した。正俊は伊勢津藩主藤堂高虎の娘を正室とした。高虎は豊臣系の外様大名だが、秀吉の死後は徳川家康への忠勤に励み江戸幕府の信頼が厚かった。元和7年(1621)、正俊が36歳で死去すると、11歳の小法師が後を継いだが、小法師が若年であったため外祖父の高虎が後見することになり、高虎は西嶋八兵衛など藤堂家の家臣を讃岐へ派遣して藩政にあたらせた。寛永2年(1625)、小法師は元服して高俊を名乗り、翌年には従五位下壱岐守に叙任し、さらに幕府の老中首席土井利勝の娘と婚約した(寛永10年(1633)に輿入れ)。高虎は生駒家一門の家老生駒将監・帯刀父子の力を抑えるため、生駒家では外様の家臣である前野助左衛門と石崎若狭を家老に加えさせた。寛永7年(1630)、高虎が死去して藤堂家は息子の高次が継ぎ、生駒家の後見も引き継ぐことになった。前野と石崎は高次の意向を背景に権勢を振るい、寛永10年に将監が死ぬと藩政を牛耳るようになった。藩主の高俊は無責任で暗愚、怠惰な人物であり、藩政を両人に任せきりにして、自身は専ら男色を極度に愛好し、美少年を集めては舞わせる遊びに打ち興じていた。世人はこれを「生駒おどり」と呼んだ。正室が父の利勝に高俊の行跡を訴え、利勝は立腹して厳しく諌めさせたが高俊の乱行は一向に収まらなかった。増長した前野と石崎はしばしば専横な行いをするようになり、これに不満を持つ一門譜代の家臣たちと対立して家中は乱れた。寛永12年(1635)、生駒家は幕府より江戸城修築の手伝い普請を命じられ、江戸の材木商の木屋から借金をして行った。前野と石崎はこの返済のために高松城の南方の石清尾山の松林を木屋に伐採させた。この山は親正が高松城を築いたときに要害として伐採を禁じた土地であり、家中の者たちは憤慨した。彼らは家老生駒帯刀を説き立て、前野と石崎の非違を親類へ訴えることになった。寛永14年(1637)7月、帯刀は江戸へ出て藤堂家の藩邸へ行き訴状を差し出した。訴状を受け取った高次は容易ならぬことと思い、利勝と生駒家縁戚の脇坂安元と相談し、帯刀を尋問した。高次は穏便に済ますよう帯刀を説諭して国許へ帰らせ、次いで前野と石崎を藩邸に召して尋問の上で厳しく訓戒し、以後は慎むよう誓わせた。しかし、家中の不和は収まらず、かえって激しく対立するようになった。寛永15年(1638)10月、帯刀は再び高次に前野と石崎を厳しく裁くよう訴え出た。国許にあった高次は帯刀を伊勢津藩に呼び、家中の不和が続くようではお家滅亡になると諭して帰した。寛永16年(1639)4月、参勤交代で江戸に出た高次は安元及び利勝(前年に幕府大老に就任)と相談、このままでは訴訟が絶えず遂には生駒家はお取り潰しになると考え、事を収めるため喧嘩両成敗として双方の主だった者5人に切腹を申し付けることになった。5月、藩主高俊が参勤交代で江戸に来て前野と石崎も従っていた。高次は前野、石崎及び国許から帯刀を藤堂家の藩邸に呼んで説得し、彼らは御家のために切腹することを承知した。高次は帯刀を藤堂家の領地の伊賀へ行かせた。8月、高次は使者に兵をつけて讃岐に遣わし、江戸での決定を家中の者たちに伝えた。これに帯刀派の家臣たちが不満を抱き騒ぎ始めた。12月、彼らは江戸にいる藩主高俊に帯刀ら忠義の者の命を助けるよう訴えた。これまでの事情を全く知らされていなかった高俊は驚き、親類方が相談もなくことを決めたことに怒った。寛永17年(1640)1月、高俊は藤堂家の藩邸に赴き高次に抗議した。高次は説諭するが高俊は納得せず、怒った高次はならば勝手にせよと匙を投げ、生駒家の家政から手を引くことにした。藤堂家の兵も讃岐から立ち去った。帯刀は帰国。帯刀派は歓喜したが、江戸で切腹するつもりで控えていた前野と石崎は衝撃を受け、切腹をやめ、事の始末を幕府に訴えることにした。4月、前野・石崎派は老中稲葉正勝に訴状を提出した。同時に国許に使者を送り、同志の者たちに家族を引き連れて立退くよう指図した。讃岐では、前野・石崎派の侍8人、家族や家来を含めると2300人が鉄砲や刀槍で武装して国許を立退く大騒ぎになった。江戸でも一味の者たちが藩邸を立退いた。幕府は両派の者たちを江戸城に召して審議することにした。この間に一方の首領の前野助左衛門が病死した。7月、前野・石崎派と帯刀派は対決し、帯刀は前野・石崎の専横を申し立て、更に彼らが武装して立退いたことを訴えた。3回の対審の後に幕府の裁定が決した。帯刀派に対して帯刀は主人に対して忠心あるとして出雲松江藩にお預け、その他の者も諸大名家へお預けとなった。前野・石崎派に対しては石崎、前野冶太夫(助左衛門の子)ら4人は切腹、彼らの子供のうち男子は死罪、また主だった者たち数人も死罪となった。同時に幕府は藩主高俊に対しても家中不取締りであるとして城地を没収し、出羽へ流罪とし堪忍料として矢島1万石を与えた。高松藩はその後天領となり、水戸徳川家出身の松平頼重が常陸下館藩から12万石で転封された。


プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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