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『歴史の時々変遷』(全361回)76”泉親衡の乱“「泉親衡の乱」鎌倉時代初期の建暦3年(1213)2月15日に発覚した内乱

泉2『歴史の時変遷』(全361回)76”泉親衡の乱“「泉親衡の乱」鎌倉時代初期の建暦3年(1213)2月15に発覚した内乱。鎌倉幕府御家人信濃源氏泉小次郎親衡源頼家の遺児千寿丸鎌倉殿に擁立し執権北条義時を打倒しようとした陰謀とそれに続いた合戦を指す。一般的には和田合戦の前哨戦とされている。鎌倉幕府では、1204年に将軍頼家が幽閉された後に暗殺され、北条氏によって源実朝が将軍に擁立されていた。建暦32月、千葉成胤を泉小次郎親衡の郎党青栗七郎の弟で安念坊という僧が訪ね、千寿丸を擁しての挙兵への協力を求めてきたことが発端である。成胤は安念坊を捕縛し義時の元へ連行し、彼の自白により和田義盛の子である義直義重、甥の胤長ら十数人が直ちに捕縛された。当時、義盛は上総国の自領伊北庄に行っており鎌倉を留守にしていたという。泉親衡は直ちに遣わされた捕縛の使者と合戦に及び、その混乱に乗じて逐電。急を聞いて駆けつけた義盛が一族の赦免を嘆願し、義直、義重は許されたが、胤長は許されず、3月に陸奥国岩瀬郡へ配流され、屋敷は没収されることと決まった。胤長の屋敷は一旦は義盛が拝領することとなったが、義時の反対に遭い、結局は北条氏の預かりとなったため、面目を潰された義盛は北条氏を打倒する意思を固め、和田合戦に繋がることとなった。泉親衡は、源満仲の弟満快の子孫と伝えられ、自身も源氏の一族であったことから、一御家人である北条氏の下風に立つことを好まなかったとされているが、乱にかかる捕縛者のうち和田一族以外は直後に放免されている上に、親衡も生き延びており、和田一族を滅ぼす目的で義時が義盛を挑発した事件であったとも言われる。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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