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「神仏霊場巡り」多武峰・談山神社・         多武峰と言えば談山神社、春に桜、秋の紅葉と建築美の絶景は西の日光

た談山神社3 (2)「神仏霊場巡り」多武峰・談山神社・        

多武峰と言えば談山神社、春に桜、秋の紅葉と建築美の絶景は西の日光と言われる。また談山神社は普通の神社と光景が違う、寺院の様式が漂う境内の社殿は朱塗りで重厚で絢爛豪華にして荘厳さ、誰もが見過ごす参道には高麗門様式の「東大門」は「女人禁制」の石碑がこの「多武峰」の歴史と伝統を伝える。急な勾配に隆盛期の堂塔跡と僧兵の屯所跡、石塔籠の数々に十三重の塔は、これは鎌足の次男の不比等(淡海公)の墓である。その先に二ノ鳥居に入り長い石段を登ると朱塗りの楼門(国文)が建ち、回廊を通り拝殿へ(旧寺護国院の国文)拝殿は舞台造りに宗塗りの高麗に軒先の釣り燈篭、本殿の祭神は鎌足公と天神地祇八百万の神々(旧聖霊院は国文)は、東殿(旧妙法堂は国文)神廟拝所(旧講堂は国文)権殿(旧常行三昧堂は国文)これら社殿の西に神社に似つかわしくない木造の十三重塔(国文)何もかも今では見られない神仏習合の寺社なのである。談山神社の二の鳥居前の参道を西に登ると、増賀堂、西大門跡に至り、やがて明日香村の石舞台に達する。古代は飛鳥時代より「多武峯」の地名が度々登場する要の地である。 この多武峰の最高峰、御破裂山(六〇七メートル)に、鎌足の長男の定慧は出家して入唐し帰国後、摂津の茨木の阿威山にあった鎌足の遺骨をこの地に改葬したのである。この多武峰の地に改葬した後、十三重塔と堂を建立し「妙楽寺」と号し、「大宝元年」には聖霊院と惣社の神仏習合の談山権現の勅号が下賜されたという。「御破裂山」に至る“談所の森”は中大兄皇子と鎌足が入鹿を打つ為の「談い」の場所と伝えられ「談山」地名の由来になっている。  その後時代の盛衰に多武峰は寺社一体で、鎌足を祀る神仏習合の寺院として「多武峰寺」としてまた談山神社もその一環として祀られていたが藤原氏の祖廟にも拘らず、興福寺の敵対する比叡山の延暦寺の支配傘下にあった。永保二年三月には興福寺の僧徒が多武峰に襲撃を掛け民家を焼き払う。これに対して多武峰の僧兵は対抗し興福寺の横暴を入京し強訴をしている。

大和の強権「興福寺」との諍いが絶えず、僧兵が衝突を繰り返し堂塔は悉く戦禍に遭ったがその都度再建されたが、明治の神仏分離令までは寺社一体で運営されていたが廃仏毀釈の嵐に仏教色は一掃され「談山神社」として存続された。

波乱の時代に残された伝統ある参道の石灯篭の数々や、参道口の両袖つき高麗門の東大門、女人禁制の石碑は往時の人々の信仰の厚さを測り知ることができる。回廊の社殿も聖霊院にも、その聖地、霊地参りの信者の宿坊が軒を連ねて人々の賑わいが遺跡から垣間見ることができる。

この多武峰の境内の社殿などの建立物は国宝、文化財の宝庫ではあるが、魔尼輪塔、石灯篭の他「大和国栗原寺三重塔伏鉢(国宝)絹本着色大威徳明王、紺紙金泥法華経宝塔曼荼羅図、他太刀など多くの文化財を有している。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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