『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)186“足利義昭”後編“          これによって義昭と信長の対立

義昭6 (2)『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)186“足利義昭”後編“         

これによって義昭と信長の対立は抜き差しならないものになり、元亀4年(1573)信長は子を人質として義昭に和睦を申し入れたが、義昭は信じず、これを一蹴した。義昭は近江の今堅田城石山城に幕府の軍勢を入れ、はっきりと反信長の旗を揚げた。しかし攻撃を受けると数日で両城は陥落している。信長は京に入り知恩院に陣を張った。幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り、信長についた。しかし義昭は、洛中の居城である烏丸中御門第にこもり、抵抗を続けた。信長は再度和睦を要請したが、義昭は信用せずこれを拒否した。信長は威嚇として幕臣や義昭の支持者が住居する上京全域を焼き討ちにより焦土化し、ついに烏丸中御門第を包囲して義昭に圧力をかけた。さらに信長はふたたび朝廷に工作した末、45日に勅命による講和が成立した。義昭は講和を破棄し、烏丸中御門第を三淵藤英・伊勢貞興らの他に日野輝資高倉永相などの武家昵近公家衆に預けた上で、南山城の要害・槇島城(山城国の守護所)に移り挙兵した。織田軍が攻撃を開始すると槇島城の施設がほとんど破壊されたため、家臣にうながされ、しぶしぶ降伏した。信長は他の有力戦国大名の手前、足利将軍家追放の悪名を避けるため、義昭の息子である義尋を足利将軍家の後継者として立てるとの約束で義昭と交渉のうえ自身の手元に置いたが、後に信長の憂慮が去ると反故にされている。信長は義昭の京都追放を実行し、足利将軍家の山城及び丹波・近江・若狭ほかの御料所を自領とした。しかし、義昭が京都から追放されたとは言っても、かつて10代将軍であった足利義稙明応の政変で将軍職を解任された後も大内義興らによって引き続き将軍として支持を受けて後に義興に奉じられて上洛して将軍職に復帰したように、義昭が京都に復帰する可能性も当時は考えられていた。また義昭も将軍職としての政務は続け、伊勢氏高氏一色氏上野氏細川氏館氏飯尾氏松田氏大草氏などの幕府の中枢を構成した奉公衆や奉行衆を伴い、近臣や大名を室町幕府の役職に任命するなどの活動を行っていた。 そのため近畿周辺の信長勢力圏以外では、追放前と同程度の権威を保ち続け、それらの地域の大名からの献金も期待できた。また京都五山住持任命権も足利将軍家に存在したため、その任命による礼金収入は存在していた。また、これまでの室町将軍の動座・追放の際にはそれまで将軍を支持して「昵近」関係にあった公家が随伴するのが恒例で、彼らを仲介して朝廷との関係が維持され続けていた。実際に義昭の越前滞在時にも未だに将軍に就任していないにも関わらず前関白(当時)二条晴良や飛鳥井雅敦らが下向し、義昭に追われる形となった前将軍・義栄にも水無瀬親氏が最後まで従っている。ところが、今回の義昭追放においては烏丸中御門第で信長に抵抗した高倉永相や日野輝資のような公家はいたものの、彼らは最終的には信長の説得に応じ、義昭に従って京都を離れた公家は皆無であった。その一方で、200年余り続いた室町幕府の中で、征夷大将軍が足利家の家職であり「(足利家と同じ清和源氏であったとしても)他家の人間が征夷大将軍に就任する事はありえない」という風潮が確立されており、出家後の義昭をその死去まで将軍とみなす社会認識があったとして、そのことが朝廷が積極的に義昭の解任の動きを見せなかった理由、織田信長が義昭に代わる征夷大将軍の地位を求めなかった理由とする説もある。京都からの追放後、義昭はいったん枇杷荘(現:京都府城陽市)に退いたが、顕如らの仲介もあり、妹婿である三好義継の拠る河内若江城へ移った。護衛には羽柴秀吉があたったという。しかし信長と義継の関係も悪化したため、和泉のに移った。堺に移ると信長の元から羽柴秀吉と朝山日乗が使者として訪れ、義昭の帰京を要請した。この説得には毛利輝元の家臣である安国寺恵瓊林就長もあたっている。しかし義昭が信長からの人質提出を求めるなどしたため交渉は決裂している。翌・天正2年(1574)には紀伊国興国寺に移り、ついで泊城に移った。紀伊は室町幕府管領畠山氏の勢力がまだまだ残る国であり、特に畠山高政の重臣であった湯川直春の勢力は強大であった。直春の父・湯川直光は紀伊出身でありながら河内守護代をも務めたことがある実力者である。天正3年(1575)、義昭がかねてより望んでいた右近衛大将に信長が任官してしまう。天正4年(1576)、義昭は毛利輝元の勢力下であった備後国に移った。これ以降の義昭の備後の亡命政府は鞆幕府とも呼ばれる。鞆での生活は、備中国の御料所からの年貢の他、足利将軍の専権事項であった五山住持の任免権を行使して礼銭を獲得できたこと、日明貿易を通して足利将軍家と関係の深かった宗氏島津氏からの支援もあり財政的には困難な状態ではなかったと言われている。近畿東海以外では足利将軍家支持の武家もまだまだ多かった。この地から、義昭は信長追討を目指し全国の大名に御内書を下しており、同年には甲斐の武田、相模の後北条、越後の上杉三者の和睦をもちかけているが、実現を見ていない。また、毛利氏が上洛に踏み切らないのは、北九州で大友宗麟の侵攻を受けているからだと考えた義昭は島津氏龍造寺氏大友氏討伐を命じる御内書を下した。天正5年(15779月の手取川の戦いで織田軍を打ち破った上杉謙信も天正6年(15783月に死去し、天正8年(1580)には石山本願寺も信長に降伏した。しかし、義昭がまだ備後鞆に滞在中であった天正10年(158262日に信長と嫡子の織田信忠本能寺の変で明智光秀に討たれた。信長の死を好機に、義昭は毛利輝元に上洛の支援を求めた(一方、羽柴秀吉や柴田勝家にも同じような働きかけを盛んに行なっていた)。親秀吉派であった小早川隆景らが反対したこともあり、秀吉に接近しつつあった毛利氏との関係は冷却したとも言われるが、天正11年(15832月には、毛利輝元・柴田勝家・徳川家康から上洛の支持を取り付けている。同年、毛利輝元が羽柴秀吉に臣従し、天正14年(1586)、秀吉が関白太政大臣となる。その後、「関白秀吉・将軍義昭」という時代は2年間続いた。この2年間は、秀吉が天下を統一していく期間に該当する。義昭は将軍として秀吉との和睦を島津義久に対して勧めていた。島津氏が秀吉の軍門に下った後の10月、義昭は京都に帰還する。その後、天正16年(15881月13に将軍職を辞して受戒し、名を昌山(道休)と号した。また朝廷から准三后の称号(待遇)を受けている。秀吉からは山城国槇島において1万石の領地を認められた。1万石とはいえ前将軍であったので、殿中での待遇は大大名以上であった。文禄・慶長の役には、秀吉のたっての要請により、由緒ある奉公衆などの名家による軍勢200人を従えて肥前国名護屋まで参陣している。晩年は斯波義銀山名堯熙赤松則房らとともに秀吉の御伽衆に加えられ、太閤の良き話相手であったとされる。毛利輝元の上洛の際などに名前が見られる。慶長2年(1597)、大坂薨去。死因は腫物であったとされ病臥して数日で没したが、老齢で肥前まで出陣したのが身にこたえたのではないかとされている。義演は日記の中で「近年将軍ノ号蔑也、有名無実弥以相果了」と感想を記している。享年61★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

 

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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