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『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)186“足利義昭”前編 “ 足利義昭(1537~1597)室町幕府第15代(最後)の将軍

義昭1『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)186“足利義昭”前編 “

足利義昭(1537~1597)室町幕府15代(最後)の将軍。在職20年間。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが松永久秀らに暗殺されると、三淵藤英細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。天文6年(15371113日、第12代将軍・足利義晴の次男として生まれる。幼名は千歳丸。兄に嗣子である義輝がいた。跡目争いを避けるため、あるいは寺社との結びつきを強めるために嗣子以外の息子を出家させる足利将軍家の慣習に従って天文11年(15421120日、外祖父・近衛尚通猶子となって仏門(興福寺一乗院門跡)に入室し、法名を覚慶と名乗った。のちに興福寺で権少僧都にまで栄進している。このまま覚慶は高僧として生涯を終えるはずであった。永禄8年(15655月の永禄の変で、第13代将軍であった兄・義輝と母・慶寿院、弟で鹿苑院院主であった周暠松永久通三好三人衆らによって暗殺された。当時の義昭のことを記した書物には、将軍家当主をさす矢島の武家御所などと呼ばれていたことが記されている。矢島御所において義秋は、三管領家の一つである河内国畠山高政関東管領の上杉輝虎、能登守護の畠山義綱(近江滋賀郡在国)らとも親密に連絡をとり、しきりに上洛の機会を窺った。しかし、永禄9年(15668月、先の約束通り上洛の兵を起こした信長の軍は斎藤龍興の襲撃にあって尾張国に[し、さらに六角義賢・義治父子が三好三人衆と密かに内通したという情報を掴んだため、妹婿である武田義統を頼り、若狭国へ移った。斎藤龍興と六角義賢の離反がほぼ同時に起きているのは三好方による巻き返しの調略があったとみられている。しかし、京都北白川に出城も構え、応仁の乱では東軍の副将を務め隆盛を極めた若狭武田氏も、義統自身が息子との家督抗争や重臣の謀反などから国内が安定しておらず、上洛できる状況でなかった。やがて、朝倉家の家臣であった明智光秀の仲介により、三管領斯波氏の有力家臣であった織田信長を頼って尾張国へ移る。将軍に就任した義昭は義輝暗殺及び足利義栄の将軍襲職に便宜を働いた容疑で近衛前久を追放し、二条晴良を関白職に復職させた。近衛家は義昭の生母であった慶寿院以来、将軍の御台所を輩出してきたが、前久追放による関係の冷却化によって正室を迎えることが出来なくなった。 また、幕府の管領家である細川昭元や畠山昭高、朝廷の関白家である二条昭実偏諱を与え領地を安堵し政権の安定を計り、兄の義輝が持っていた山城国御料所も掌握した。また山城国には守護を置かず、三淵藤英を伏見に配置するなどし治めた。幕府の治世の実務には、兄の義輝と同じく摂津晴門政所執事に起用し、義昭と行動を供にしていた奉行衆も職務に復帰して幕府の機能を再興した。また伊勢氏当主も義栄に出仕した伊勢貞為を弟の貞興に代えさせて義昭に仕えさせたとされる。義昭は当初、本圀寺を仮御所としていたが、永禄12年(1569)信長の兵が領国の美濃・尾張に帰還すると三好三人衆の巻き返しに晒され、本圀寺を襲われた(本圀寺の変)。兄・義輝と同様の運命になるかとも思われたが、この時は奉公衆および北近江の浅井長政・摂津国池田勝正・和田惟政・伊丹親興三好義継らの奮戦により、これを撃退した。烏丸中御門御第の再興および増強は、このような理由で急遽行われた。義昭は信長に命じて兄・義輝も本拠を置いた烏丸中御門第を整備する。将軍就任直後の1024日に信長に対して宛てた感状で、「御父織田弾正忠(信長)殿」と宛て名したことはことに有名である。信長は上洛の恩賞として尾張・美濃領有の公認と旧・三好領であった堺を含む和泉一国の支配を望んだために義昭は信長を和泉守護に任じた。さらに、信長には管領代または管領の地位、そして朝廷への副将軍への推挙を申し入れた。しかし信長は受けず、弾正忠への正式な叙任の推挙のみを受けた。しかし幕府再興を念願とする義昭と、武力による天下統一を狙っていた信長の思惑は違っていたために、両者の関係は徐々に悪化していくこととなる。信長は伊勢国の北畠氏を攻めて本拠地である大河内城を攻めたものの北畠氏の抵抗で城を落としきれず、信長の要請を受けた義昭が仲介に立つ形で和議が行われた(大河内城の戦)。ところが、両者の意見の齟齬から、信長が自分の次男を北畠氏の養子に押し付けるなど、義昭の意向に反する措置を取ったことがその不快感を招き、関係悪化の一因になったとされている。義昭が信長の傀儡とは言えず室町幕府の組織が有効に機能しており、むしろ義昭個人の将軍権力の専制化や恣意的な政治判断による問題が浮上し始めていたとする指摘もある。だが、義昭が殿中御掟を全面的に遵守した形跡はなく、以後両者の関係は微妙なものとなっていく。信長に不満を持った義昭は、自らに対する信長の影響力を相対化しようと、元亀2年(1571)頃から上杉輝虎(謙信)や毛利輝元本願寺顕如甲斐国の武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめた。これは一般に信長包囲網と呼ばれている。この包囲網にはかねてから信長と対立していた朝倉義景・浅井長政や延暦寺、兄の敵でもあった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わっている。ただし、松永久秀追討に義昭の兵が参加するなど、義昭と信長の対立はまだ必ずしも全面的なものにまではなっていなかった。この年の11月には、摂津晴門の退任後に空席であった政所執事(頭人)に若年の伊勢貞興を任じる人事を信長が同意し、貞興の成人までは信長が職務を代行することになった。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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