『歴史の時々変遷』(全361回)69”建久七年の政変“(九条兼実) 「建久七年の政変」建久7年(1196)11月、九条兼実が関白を罷免され失脚した事件

九条6『歴史の時変遷』(全361回)69”建久七年の政変“(九条兼実)

「建久七年の政変」建久7年(119611月、九条兼実関白を罷免され失脚した事件。建久3年(1192313日、後白河法皇の崩御により関白九条兼実は、幼年の後鳥羽天皇を擁して名実ともに政治の実権を掌握した。712日、兼実は初度の朝政として源頼朝征夷大将軍宣下して関東との協調に務め、腹心で「九条殿のならびなき後見役」と呼ばれた葉室宗頼を後院庁別当とした。11月には、弟の慈円天台座主に任じ延暦寺を統制させて、政権基盤の強化を図った。兼実は治承・寿永の乱で荒廃した南都の復興に力を尽くし、建久5年(1194)に藤原氏の氏寺・興福寺、建久6年(1195)には鎮護国家の象徴・東大寺の再建を成し遂げて摂関家の威信を示した。後鳥羽天皇も兼実の施政を善政と評価して御遊を自粛するなど(『愚管抄』)信頼を寄せており、後白河院政下で「無権の執政」と嘆いていた兼実にも、ようやく前途が開けたかに見えた。後白河法皇は末娘の宣陽門院を溺愛して、院領の中でも最大規模の長講堂領を伝領させたが、宣陽門院の生母・丹後局と宣陽門院執事別当の土御門通親は所領拡大のために、播磨国備前国において荘園の新規立券を行った。兼実は摂関家嫡流に生まれた自負から院近臣に反感を抱いていたが、法皇崩御を機にその抑圧に乗り出し、手始めにこの宣陽門院領の立荘を取り消した。さらに建久4年(1193129日の除目において、参議山科実教藤原成経の中将兼任を停めて両名を辞職に追い込んだ。実教と成経は院近臣の代表的な家柄である善勝寺流の出身であり、実教は丹後局の子・教成を猶子としていた。翌年正月には、教成も左少将を辞任している。これらの措置は丹後局の憤激を招き、廟堂から排除された院近臣は宣陽門院を牙城として兼実を追い落とす機会を伺うことになる。また兼実の故実先例へのこだわりは、誰にも掣肘されることのない最高権力者の立場になってから更に厳格さを増していった。公事・作法の過失・懈怠に対しては、過状の提出を求めたり勘責を加えるようになり、朝廷内では中・下級貴族を中心に兼実への反発が広がっていった。建久6年(119534日、頼朝は東大寺落慶供養に参列するため5年ぶりに上洛した。頼朝の態度の変化に困惑している様子が伺える。410日、兼実と頼朝は再び対面するがこの時の会談はかなり長くなり、深更にまで及んだ。頼みとしていた頼朝の支援を失った兼実にとって、唯一の希望は中宮任子の皇子誕生だけだった。12月に通親の養女・在子が皇子を産んだことが明らかとなった。ここに至り、廷臣の大半は兼実に見切りをつけて、皇子を養育している通親の傘下に流れていった。建久7年(1196323日、兼実の長年の盟友だった左大臣三条実房が病により辞任するが、兼実は後任を定めなかった。これは次席の右大臣・花山院兼雅が通親派だったこともあるが、兼実の求心力が地に落ちて人事権を行使できなくなっていたことが大きな要因だったと思われる。1123日、中宮・任子は内裏から退去させられ、25日には兼実が上表の形式すらなく関白を罷免された。後任の関白には近衛基通が任じられた。『愚管抄』によると通親は兼実の流罪まで行おうとしたが、後鳥羽天皇がそこまでの罪はないと押し止めたという。弟の慈円・兼房もそれぞれ天台座主・太政大臣を辞任した。この政変において兼実を支援する勢力は皆無に等しかった。兼実の家司・三条長兼は「九条殿に参るの人、関東将軍咎を成す。用心すべし」という風聞を記している。兼実の執政は法皇崩御から僅か4年余りで終焉することになった。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。

 

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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