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『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)182“京極持清” 京極持清(1407~1470)室町時代中期から後期の武将、守護大名

 持清2『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)182“京極持清”

京極持清(1407~1470)室町時代中期から後期の武将守護大名室町幕府侍所頭人兼山城守護、出雲隠岐飛騨近江守護。京極高光の次男。兄弟に持高細川持之室。子に勝秀政光政経、娘。細川勝元は甥にあたる。官位は従四位上中務少輔大膳大夫京極高光の子として生まれる。のちに元服し、室町幕府4将軍足利義持より偏諱を授与されて持清と名乗る。応永20年(1413)に父が亡くなり、兄の持高が後を継ぐが、持高は永享11年(1439)に子を残さないまま亡くなった。薩戎記はこの後に叔父の高数が家督を継いだとし、西讃府史は持清が家督を継いだとしている。いずれにせよ、高数は翌々年の嘉吉元年(14416月に起こった嘉吉の乱で、第6代将軍足利義教(義持の弟)と共に赤松満祐邸で赤松家の家臣に討たれる。室町幕府は満祐の追討軍を播磨へ送り、その間に持清は侍所頭人に任命され京都の警護を行うが、8月に嘉吉の徳政一揆が起こり清水坂で一揆と戦っている。その後満祐の追討がなされ、幕府が徳政令を発する事により一揆も治まり、12月に持清は出雲・隠岐・飛騨の守護職を継いだ。文安3年(1446)に同族で佐々木氏一門の宗家である六角氏において家督争いが生じ、幕府の命により六角久頼を助けこれを鎮めるが、後に久頼は持清との確執を理由に自害し、嫡子の亀寿丸(六角行高(高頼))が後を継いだ。翌文安4年(1447)に侍所頭人を辞任するが、文安6年(1449)に再任され、以降は寛正7年(1466)まで長く務める。この間、寛正元年(1460)には出家して生観と改名しており、2年後の寛正3年(1462)に開いた花会では池坊専慶に立てさせた花が評判になったという。応仁元年(1467)に応仁の乱が起こると、甥・細川勝元の率いる東軍に家臣で従弟の多賀高忠と共に1万余騎を率いて属し、洛中の花開院塩屋、一条大宮などで西軍と戦う。翌応仁2年(1468)には西軍についた六角行高と近江で戦い、長男の勝秀と高頼の従兄の六角政堯が高頼の本拠地である観音寺城を落とし、翌文明元年(1469)には六角氏が代々務めて来た近江守護職に任じられた。出雲では守護代尼子清定が出雲国人の反乱を鎮圧、恩賞として能義郡奉行職や美保関代官職を与えた。以後も高頼との戦いが続く中、文明2年(1470年)に64歳で病死した★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。

 

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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