『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)181“伊勢貞親” 伊勢貞親(1417~1473)室町時代中期の武士で室町幕府政所執事

伊勢1『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)181“伊勢貞親”

伊勢貞親(1417~1473)室町時代中期の武士室町幕府政所執事である。桓武平氏の流れを汲む伊勢氏。父は伊勢貞国、母は蜷川親俊の娘。弟に貞藤。子に貞宗8将軍足利義政を幼少の頃から養育し、嘉吉3年(1443)には管領畠山持国の仲介で義政と擬似父子関係を結んだ。享徳3年(1454)に家督を相続、同年に発生した土一揆への対処として考案された分一銭制度の確立などを通じて幕府財政の再建を成功させ、義政の信任を得た。また、政所執事には就任していなかったが、義政から収入と支払の権限を与えられ幕府財政を任され、政所の裁判に携わる官僚の人事権や将軍の申次衆も一族で固めて政所の実権を握り、奉行衆番衆奉公衆の指揮権も任され幕府の政治・軍事も掌握、親政を目指す義政にとって無くてはならない存在となっていった。康正元年(1455)頃から義政の御内書に副状を添えるようになり、それまでは管領細川勝元が発給していた副状に代わり義政の御内書発給数が上回り、幕府奉行人の管轄が管領から貞親(将軍)へ移動、奉行人奉書または御内書を通して義政の親政を支え勝元を牽制、軍事でも義政の補佐役を務め義政との会談及び方針を決定する重要な役割を任された。寛正元年(1460)に享徳の乱で混迷していた関東諸大名の取次ぎも任され、同年に二階堂忠行に代わり政所執事に就任し、禅僧の季瓊真蘂らと共に政務の実権を完全に握った。寛正4年(1463)、義政の母日野重子が死去したことを口実に反逆者となっていた斯波義敏畠山義就を義政を通して赦免させ、寛正6年(1465)に勝元が敵対した大内政弘討伐を要請した時は、表向き義政が政弘討伐命令を下す一方で裏から政弘を支援、勝元との対立が激化した。寛正6年(1465)に義政の正室日野富子が男子(足利義尚)を産むと義尚の乳父となる。翌応仁元年(1467)、勝元率いる東軍と宗全率いる西軍の間で戦端が開かれ応仁の乱が起こると、義政に呼び戻され6月に伊勢から上洛、翌応仁2年(1468)正式に復帰した。しかし復帰に反発した義視が同年出奔して西軍に擁立され、戦乱が長期化する事態となった(弟の貞藤も西軍に鞍替えした)。また、復帰したとはいえかつてのように重要任務を任されることはなく、西軍の部将朝倉孝景の帰順交渉を担当したこと以外に目立った活動は無かったが、文明3年(1471万里小路春房とともに蜂起を企てたと疑われて春房とともに近江の朽木貞綱(貞綱室は春房の妹)の元に亡命して出家、そのまま引退した、2年後の文明5年(1473年)に若狭で死去した。享年57★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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