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『歴史歳時記豆知識』46・下司(げし/げす)とは、中世日本の荘園や公領において、現地で実務を取っていた下級職員

 下司4『歴史歳時記豆知識』46・下司(げし/げす)とは、中世日本の荘園公領において、現地で実務を取っていた下級職員のこと。惣公文(そうくもん)とも呼ばれる。元は身分の低い役人を指して称した。現地の公文田荘惣追捕使らを指揮して年貢公事夫役の徴収や治安の維持などを行った。主に開発領主及びその子孫が荘園公領制の成立とともに下司になるケースが多く、本来は現地における荘官の責任者であったが、荘園領主が現地に上司(うえつかさ)にあたる預所を派遣した場合にはその指揮下に入り、公文・田所と同格扱いされることもあった(その場合には下司・公文・田所を「三職」とも称した)。(下司)職として給田名田(下司名)、加徴米などの付加税を得分として与えられた(ただし、下司が荘園領主に当該地を寄進した開発領主やその子孫の場合には他に特権を保証されていたケースもある)。時代が下って武士化した下司の中には鎌倉幕府に従って地頭の地位を獲得して現地に勢力を伸ばす者もいた。地頭は荘園領主が勝手に免ずることが出来なかったため、次第に自立の姿勢を強めるようになり、荘園領主側も下司に対して武家に奉公しない旨を請文を提出させたりする対抗策を取る場合もあったが効果は薄く、鎌倉時代後期から南北朝時代になると自立した下司に代わって荘園領主側から下司の職務にあたる雑掌を派遣するようになった。強訴(ごうそ)とは強硬な態度で相手に訴えかける行動を指す。「嗷訴」とも。とくに、平安時代中期以後、僧兵・神人らが仏神の権威を誇示し、集団で朝廷・幕府に対して行なった訴えや要求、江戸時代に農民が領主に対して年貢減免などを要求したことを指す[1]寺社僧兵神人は、仏罰神罰武力を振りかざして、朝廷幕府に対し自らの要求を通そうとした。自分たちの寺社に関わる何らかの問題が発生した場合、僧兵たちは裹頭(かとう)と呼ばれる覆面をつけ、声色を変えた上で提起を行い、賛成のものは「尤も尤も」、反対のものは「謂われなし」と声を上げ、ひとたび決した議決には異論を差し挟まず即座に行動に出た。特に「南都北嶺」と並び称された南都興福寺比叡山延暦寺は強訴の常連で、興福寺は春日大社神木春日神木)、延暦寺は日吉大社神輿などの「神威」をかざして洛中内裏に押し掛けて要求を行い、それが通らない時は、神木・神輿を御所の門前に放置し、政治機能を実質上停止させるなどの手段に出た。神木を使う前者を「榊振り」、神輿を使う後者を「神輿振り」とも呼び[3]、神輿振りは1095年の強訴が最初とされる。白河法皇は「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」という言葉を残しているが、これは延暦寺の強訴を嘆いての事である。興福寺の榊振りの場合は、まず訴訟の宣言として、神木を本殿から移殿へ移し(御遷座)、訴えが聞き入れられれば本殿へ戻し(御帰座)、聞き入れられなければ興福寺前の金堂に移し、それでもまだ聞き入れられない場合は神木を先頭にして京に向かって大行進を始め、木津で一旦駐留し(御進発)、それでもまだ聞き入れられないなら宇治平等院まで北上し、それでもだめな場合にいよいよ入洛する、という手順だった。強訴の理由は寺社の荘園国司が侵害したり、競合する寺社が今までより優遇措置を得ることなどである。朝廷は、強訴を押さえるため、武士の武力を重用した。これは、新興勢力の武士が、仏罰や神威を恐れなかったためである。これにより、武士が中央政界での発言権を徐々に持つようになる。寺社の強訴は平安時代から室町時代ごろまで盛んだったが、その後寺社権門の衰退と共に廃れていった。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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