史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)179”足利義輝“ 足利 義輝(1536~1566)室町時代後期の室町幕府第13代征夷大将軍

義輝3『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)179”足利義輝“

足利 義輝(1536~1566)室町時代後期の室町幕府13征夷大将軍(在職10年間)。第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれる。誕生直後に外祖父・近衛尚通猶子となる。この頃の幕府では父・義晴と管領細川晴元が互いの権威争いで対立し、義晴は戦をするたびに敗れて近江坂本に逃れ、菊童丸もそれにたびたび従った。その後も父と共に京への復帰と近江坂本・朽木への脱出を繰り返した。天文15年(154612月、菊童丸はわずか11歳にして、父から幕府将軍職を譲られる。天文17年(1548)、義晴は晴元と和睦して京に戻った。このとき晴元も義藤の将軍就任を承諾している。ただし将軍とは有名無実で、長慶とその家臣・松永久秀の傀儡であった。天文22年(1553)に晴元と協力して長慶との戦端を開くも敗退。再び近江朽木へ逃れ、以降5年間をこの地で過ごした。なお、亡命中の天文23年(1554212日、名を義輝に改めている。なお年号が永禄に改元された際、朽木谷にいた義輝は改元を知るのに3か月かかり、それまで古い年号の弘治を使用し続けることとなり、朝廷に抗議している。永禄元年(15585月、六角義賢(承禎)の支援で晴元とともに坂本に移り、京の様子を窺う。翌月、如意ヶ嶽に布陣して三好長逸らの軍と交戦した。一時期は六角義賢の支援を受けた義輝側が優勢であったが、長慶の弟・三好実休の反攻を受け、さらに六角義賢からも支援を打ち切られたために戦況は思うように展開しなかった。六角義賢の仲介により長慶との間に和議が成立したことに伴って、5年ぶりの入洛が実現し、御所での直接的な幕府政治を再開。この年の、伯父である近衛稙家の娘を正室に迎えている。義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。大名同士の抗争の調停を頻繁に行った。永禄元年(1558)の義輝の帰京以降も三好長慶の権勢は続いたが、それに反発する畠山高政と六角義賢が畿内で蜂起し、三好実休が戦死すると、三好氏に衰退の兆しが見え始めた。こうした中、永禄5年(1562)に長慶と手を結び幕政を壟断していた政所執事の伊勢貞孝が長慶と反目すると、義輝は長慶を支持してこれを更迭し、新しく摂津晴門を政所執事とした。しかし、傀儡としての将軍を擁立しようとする松永久秀と三好三人衆にとっては、将軍家の直接統治に固執する義輝は邪魔な存在であった。永禄8年(1565)久通と三好三人衆は主君・三好義継とともに清水寺参詣を名目に集めた約1万の軍勢率い二条御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽り取次ぎを求めた。義輝は自ら薙刀を振るって奮戦したが衆寡敵せず、最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり、殺害された。享年30。この時、摂津晴門の嫡子・糸千代丸も一緒に討ち死にした。また、義輝の生母である慶寿院も殉死している。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

 

 

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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