「温故知新」        川村一彦

歴史は語る。

『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)178“足利義晴” 足利義晴(1511~1550)室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍

義治4『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)178“足利義晴”

足利義晴(1511~1550)室町時代後期(戦国時代)の室町幕府12将軍(在職25年間):(1521-1546)。第11代将軍足利義澄の長男。母は日野永俊の娘で日野富子の姪。西国最大の大名・大内義興に擁された前将軍足利義稙が上洛した煽りを受け、父の義澄は将軍職を解任され近江六角高頼を頼って落ち延びていた。その最中の永正8年(151135日に、義澄の長男として、亀王丸は近江国蒲生郡水茎岡山城で生まれた。しかし同年814日、父は帰洛を果たせずに同地で死去している。永正18年(1521年)37日、管領細川高国と対立した義稙が京都を出奔したことで、同月22日に行われた後柏原天皇即位式に出仕しなかったために高国が警固の職務を行った。これによって天皇の信任を失った義稙の放逐を決意した高国によって、友誼を通じる浦上村宗の元にいる亀王丸は代わりの将軍として招かれる事ことになる。上洛では、高国の歓待を受けると、内裏へ代始の参賀を行った。高国の判断を受け入れた朝廷からは、右馬頭任ぜられると、1亀王丸の元服が行われ義晴と以後名乗る。翌25日に義晴は第12代将軍に補任された。大永6年(1526)、高国が家臣の香西元盛を殺害して細川氏で内紛が起こると、高国と対立していた細川晴元は、三好元長の援助を受けて義晴の弟・足利義維を擁立して高国と戦う。さらに元盛を殺したことで元盛の2人の兄波多野稙通柳本賢治らが高国から離反し、大永7年(1527)に桂川原の戦いで高国が破れると、実権を掌握した阿波国人・三好元長や細川晴元らが入京。義晴は高国や武田元光を伴い近江に逃れた。天文3年(1534)中には六角定頼義賢父子の後援を得て晴元と和解し、帰京した。しかし、その後も晴元と対立して敗れた後、和解して帰京するといった行動を繰り返しており、天文10年(1541)には近江坂本に逃れ、天文11年(1542)には京都へ帰還。天文12年(1543)には近江に再び逃れるなどしている。天文15年(1546)夏、義晴は細川氏綱畠山政国遊佐長教らと通じて晴元を排斥しようと画策した。義晴は京都郊外の東山慈照寺(銀閣寺)に入り、遊佐・氏綱の両名は軍を率いて各地で晴元方を破っていった。しかし晴元の重臣・三好長慶の弟である三好実休安宅冬康(鴨冬)らが四国から軍勢を率いて渡海し上洛すると一気に形勢は不利になり、北白川の瓜生山城に入城したものの晴元と対立して敗れ、近江坂本に避難した。この時の嫡男菊童丸元服させて「義藤」と名乗らせ、将軍職を譲った。以後は大御所として幼少の義輝の後見人となり、義輝と共に慈照寺に帰った。義晴は京都を奪回するため、慈照寺の裏山の地蔵山に中尾城の築城を開始した。しかしこの頃から病がちになり、天文19年(155037日には坂本から穴太に移動したが、病が重くなって動けなくなった。そして54日、穴太にて死去した。享年40(満39歳没)。死因は悪性の水腫だったという。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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