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『歴史の時々変遷』(全361回)64”葦屋浦の戦“ 「葦屋浦の戦い」平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の戦いの一つ。元暦寿永4年

葦屋浦3歴史の時変遷』(全361回)64”葦屋浦の戦“

「葦屋浦の戦い」平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の戦いの一つ。元暦寿永4年(118521日、源範頼率いる平氏追討軍が筑前国の葦屋浦(福岡県遠賀郡芦屋町・西浜町・白浜町・幸町一帯の湾港)で、九州の平家方の豪族原田種直らとの合戦に勝利して九州上陸を果たした戦い。前年2月の一ノ谷の戦い後、屋島に敗走した平家一門は、なお瀬戸内海一帯の制海権を握り勢力を保っていた。元暦2年(1184)、源頼朝は海上が平穏になる6月頃から行動開始の準備を始め、8月に弟の範頼を総指揮官として鎌倉から東国武士の総領格をそろえた主力部隊を西上させ、91日、範頼率いる平氏追討軍がを出発した。山陽道を下って10月に安芸国まで軍勢を進めたものの、平氏の平行盛軍によって兵站を断たれて窮乏し、九州まで兵を進める計画は頓挫していた。11月中旬に範頼は鎌倉の頼朝への書状で兵糧の欠乏、兵の士気の低下をしきりと訴えており、頼朝からは船と兵糧を送ることと、くれぐれも地元の九州武士の恨みを買わないこと、東国武士を大切にすることなど、細かい注意を繰り返し書いた返事が出されている。127日の藤戸の戦いでは佐々木盛綱の活躍で辛勝するも、水軍力を持たず兵糧も得られない範頼軍の苦戦は続き、年が明けた元暦2年(1185)正月12日、周防国から平氏が拠る長門国赤間関に到達して九州へ渡海しようとしたが、彦島平知盛軍に行く手を阻まれ、平氏追討もままならなかった。逗留は数日に及び、東国武士達に厭戦気分が蔓延し侍所別当和田義盛さえも密かに関東へ帰ろうとする始末であった。しかし早くから反平氏の兵を挙げていた豊後国の豪族緒方惟栄臼杵惟隆の兄弟から兵船82艘の献上があり、周防国の宇佐那木上七遠隆から兵糧米の提供を受け、範頼軍はいったん周防国へ戻って26日にようやく豊後国へ船出した。この日渡海したのは北条義時足利義兼小山朝政、同宗政、同朝光武田有義中原親能千葉常胤、同常秀下河辺行平、同政義浅沼広綱三浦義澄、同義村八田知家、同知重葛西清重渋谷重国、同高重比企朝宗、同能員、和田義盛、同宗実、同義胤、大多和義成安西景益、同明景、大河戸広行、同行元、中条家長加藤景廉工藤祐経、同祐茂天野遠景、一品坊昌寛土佐坊昌俊小野寺道綱らである。北条義時、下河辺行平、渋谷重国、品河清実が最初に上陸し、文治元年(118521日に筑前国葦屋浦で平氏方の原田種直と子の賀摩種益らの攻撃を受け合戦となる。行平・重国らが駆けめぐり矢を放って応戦し、種直らは重国によって射られ、行平が美気種敦を討ち取った。この合戦の勝利により、平氏の地盤であった長門・豊前・筑前は範頼軍に制圧され、わずかな海峡を隔てて彦島の平氏は孤立させられた。『吾妻鏡』の同日条には、下河辺行平が一番乗りの勲功を挙げるべく甲冑を売って小舟を買い取ったこと、三浦義澄が周防国の守備に当たるよう依頼されるが一番乗りの勲功が得られないと断り説得されて周防で陣を構えたことが書かれている。鎌倉源氏軍の九州上陸にあたり、豊後国の要塞を押さえていた緒方惟栄らの役割は大きく、22日には頼朝の申請により豊後国住人の勲功を賞する後白河院庁下文が出された。

 

 

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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