スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『歴史歳時記豆知識』42・「寄進地系荘園」11世紀ごろから、中央政府の有力者へ田地を寄進

荘園1荘園2『歴史歳時記豆知識』42・「寄進地系荘園」11世紀ごろから、中央政府の有力者へ田地を寄進する動きが見られ始める。特に畿内では、有力寺社へ田地を寄進する動きが活発となった。いずれも租税免除を目的とした動きであり、不輸権だけでなく、不入権(田地調査のため中央から派遣される検田使の立ち入りを認めない権利)を得る荘園も出現した。こうした権利の広がりによって、土地や民衆の私的支配が開始されていく。田堵は、免田を中心に田地を開発し、領域的な土地支配を進めた。こうした田堵は開発領主(かいほつりょうしゅ)に含まれる。開発領主は中央の有力者や有力寺社へ田地を寄進し、寄進を受けた荘園領主は領家(りょうけ)と称した。さらに領家から、皇族摂関家などのより有力なへ寄進されることもあり、最上位の荘園領主を本家(ほんけ)といった。本家と領家のうち、荘園を実効支配する領主を本所(ほんじょ)と呼んだ。このように、寄進により重層的な所有関係を伴う荘園を寄進地系荘園といい、領域的な広がりを持っていた。開発領主たちは、国司の寄人として在庁官人となって、地方行政へ進出するとともに、本所から下司公文などといった荘官に任じられ、所領に関する権利の確保に努めた。開発領主の中には、地方へ国司として下向して土着した下級貴族も多くいた。特に東国では武士身分の下級貴族が多数、開発領主として土着化し、所領の争いを武力により解決することも少なくなかったが、次第に武士団を形成して結束を固めていき、鎌倉幕府樹立の土台を築いていった。寄進により荘園は非常に増えたが、田地の約50%公領国衙領)として残存した。11世紀以降の土地・民衆支配は、荘園と公領の2本の柱によっていた。すなわち公的負担が荘園という権門勢家の家政機関からの出費によっても担われたため、この支配形態を荘園公領制というべき体制であったとする網野善彦の説が現在一般的認識となっている。寄進荘園の乱立を防ぐため、天皇の代替わりごとにしばしば荘園整理令が発出されたが、荘園整理の事務は国司が行っており実効が上がらない場合も少なくなかった。また、梅村喬上島享らの指摘にように、荘園整理令の対象は違法な手続によって立荘された荘園を禁じたものであり、正規の手続によって立荘された荘園を規制する法令ではなかった点にも注意が必要である。1068即位した後三条天皇は、1069延久の荘園整理令を発し、荘園整理事務を中央で処理するために記録荘園券契所を設置した。それまでの荘園整理令と異なり、この整理令では摂関家領も審査の対象となるなど、厳重な審査が行われ、大きな成果を上げた。これは、院政の開始へつながる画期となった。その一方で、延久の荘園整理令は「天皇の勅許のもとに太政官符・太政官牒の発給を得て四至が確定された荘園は公認される(荘園整理令の対象にはならない)」という荘園成立の原則が確立される画期となる。更に院政の確立によってこれまで荘園整理事務の中心的役割を果たしていた上皇法皇)に対する開発領主からの寄進が相次ぐようになる。加えて、貴族官人や寺社に与えられていた封戸制度の崩壊もこれに拍車をかけた。太政大臣を務めた藤原伊通二条天皇のために著した『大槐秘抄』には、かつての貴族には封戸や節会などの行事における臨時の賜物などの収入があったが、今はそうしたものがないので荘園や知行国からの収入で公私の資を賄っているのであるとして、荘園整理令が現実と乖離していることを指摘している。また、当時、天皇や院が相次いで造営してきた御願寺には封戸が与えられたものの実質が伴うものではなく、寺の維持や行事のために封戸の代わりとなる御願寺領となる荘園を求める事態も発生した。こうした自己矛盾によって荘園整理政策は破綻へ向かう事になるのである。寄進地系荘園は、延久の荘園整理令が発せられた11世紀後半から全国各地へ本格的に広まってゆき、平安時代末期にあたる12世紀中葉から後期にかけて最盛期を迎えた。1180に発足した初期鎌倉幕府は、御家人の中から荘園・公領の徴税事務や管理・警察権を司る地頭を任命していった。これにより、御家人の在地領主としての地位は、本来の荘園領主である本所ではなく幕府によって保全されることとなった。当然、本所側は反発し、中央政府と幕府の調整の結果、地頭の設置は平氏没官領と謀反人領のみに限定された。しかし、幕府は1185源義経謀叛を契機に、諸国の荘園・公領に地頭を任ずる権利を得ることとなった。1221承久の乱の結果、後鳥羽上皇を中心とする朝廷が幕府に敗れる事態となり、上皇方についた貴族武士の所領はすべて没収された。これらの没収領は畿内・西国を中心に3000箇所にのぼり、御家人たちは恩賞として没収領の地頭に任命された(新補地頭)。これにより東国武士が多数、畿内・西国へ移住し、幕府の勢力が広く全国に及ぶこととなった。地頭たちは荘園・公領において、勧農の実施などを通じて自らの支配を拡大していったため、荘園領主との紛争が多く発生した。荘園領主はこうした事案(所務沙汰)について幕府へ訴訟を起こしたが、意外にも領主側が勝訴し、地頭側が敗訴する事案が多くあった(幕府の訴訟制度が公平性を確保していたことを表している)。しかし、地頭は紛争を武力で解決しようとする傾向が強く、訴訟結果が実効を伴わないことも多かったため、荘園領主はやむを得ず、一定額の年貢納入を請け負わせる代わりに荘園の管理を委ねる地頭請(じとううけ)を行うことがあった。こうした荘園を地頭請所という。地頭請は、収穫量の出来・不出来に関わらず毎年一定量の年貢を納入することとされていたため、地頭側の負担も決して少なくなかった。別の紛争解決として、下地中分(したじちゅうぶん)があった。これは、土地(下地)を折半(中分)するもので、両者の交渉(和与)で中分する和与中分と荘園領主の申し立てにより幕府が裁定する中分とがあった。このような経緯を経て、次第に地頭が荘園・公領への支配を強めていくこととなった。当時の荘園・公領で現地での生産活動の中心だったのが、上層農民の名主(みょうしゅ)である。名主は領主・地頭から名田の耕作を請け負いながら、屋敷を構え、下人や所従などの下層農民を支配し、屋敷近くに佃(つくだ。御作や正作とも称する。)と呼ばれる良田を所有した。名主が荘園領主や地頭に対して負担した租税は、年貢公事夫役などであった。この時代、農業技術が著しく発達し、二毛作や鉄製農具の普及により、農業生産が飛躍的に増加した。このため、農民層にも経済力がつき始め、領主・地頭への権利意識が高まることとなった。1333鎌倉幕府滅亡から建武の新政室町時代初期までの間は、全国的に戦乱が相次ぎ、荘園の所有関係も非常に流動化した。このため、鎌倉期以前の荘園では、住居がまばらに点在する散村が通常であったが、室町期に入ると、民衆が自己防衛のため村落単位で団結する傾向が強まり、武装する例もあった。新たに発足した室町幕府は、戦乱を抑えることを目的として、在地武士を組織するため、国単位におかれる守護の権限を強化した。1346、幕府は守護に対して、刈田狼藉の取締と使節遵行の権限を付与した。さらに、1352、守護が軍費調達の名目で荘園・公領からの年貢の半分を徴発する半済を、近江美濃尾張3国に限定して認めた。半済はあくまで限定的かつ臨時に認められていたが、次第に適用地域が拡がっていき、かつ定常的に行われるようになった。こうして守護には強大な権限が集中することとなった。守護が荘園領主から年貢徴収を請け負う守護請も活発に行われ始め、守護による荘園支配が強まった。守護は一国全体の領域的な支配を確立したのである。室町時代の守護を守護大名という。一方、荘園・公領に在住する民衆は、村落を形成し、自立を指向していった。このような村落を惣村という。畿内では惣村の形成が著しく、民衆の団結・自立の傾向が強かった。東北・関東・九州ではより広い荘園・公領単位でのゆるやかな村落が形成され、これを郷村と呼ぶこともある。これら惣村・郷村は高い自治能力を醸成していき、荘園領主から直接、年貢納入を請け負う地下請(じげうけ)が行われることもあった。守護大名の権限強化と惣村・郷村の自立とによって、荘園は次第に解体への道を進んでいくこととなった。ただし、この通説に対しては批判もあり、室町幕府が公武権力の頂点となり、守護に荘園・公領への賦課を認める一方で、荘園・公領に対する一円支配を安堵する政策を取り、百姓からの荘家の一揆土一揆に対しては守護と荘園が協力して鎮圧するなど、15世紀後期までは比較的安定していた時期が続いており、荘園制の解体段階ではなく「室町期荘園制」とでも呼ぶべき安定段階にあったとする説もある[3]戦国時代戦国大名は、守護大名以上に、地域支配を強めていった。戦国大名は武力で自らの支配地域を確立していったため、従前の権利関係を解消して、支配地域を家臣や寺社へ分け与えることが多かった。その中で荘園も、戦国大名に蚕食され徐々に減少していった。荘園の所有を巡る紛争が発生しても、それを裁定しうる機関が存在しないため、実力を有する者が支配するようになったのである。中には土佐の一条氏(土佐一条氏)のように、荘園領主である中央貴族が荘園支配を維持するため、荘園へ下向し、そのまま土着して戦国大名となってしまった例もある。1580年代以降、羽柴秀吉により全国的に検地が施行された(太閤検地)。秀吉の太閤検地は他の戦国大名の検地と違い、1つの土地に1人の耕作者のみ認めようとした。しかし帳簿の上では1人になっても、領主に提出するものとは別に村内向けのより実態に近い帳簿が作成され、それに従って年貢が納められるなど、実際には依然として農村内で様々な権利関係が存在していた。なお室町期以来、全国的に年貢の納め方は地下請が主流になっていたが、戦国時代ではこの地下請を引き継いだ村請(むらうけ。年貢は村単位でまとめて納入する)が採用され、江戸幕府もこれを継続した。※歴史の学ぶ 教訓と智恵。

 

 

 

スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

最新コメント
最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。