『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)172“蓮如” 蓮如(1415~1499)室町時代の浄土真宗の僧侶。本願寺第8世。

 蓮如1『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)172“蓮如”

蓮如(1415~1499)室町時代の浄土真宗の僧侶。本願寺第8世。父本願寺第7世存如。親鸞の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。応永22年(1415)、京都東山の本願寺にて、本願寺第7存如の長子として生まれる。母は存如の母に給仕した女性と伝えられているが、詳細は不明。蓮如6歳の時、存如が本妻を迎える。この時点で生母は本願寺を退出しその後の行方は分かっていない。蓮如幼年期の本願寺は、佛光寺の隆盛に比し衰退の極にあり、参拝者が余りにも寂れた本願寺の有様を見て呆れ、仏光寺へ参拝したほどであった。永享3年(143117歳の時青蓮院で得度し、中納言広橋兼郷の猶子となる。名を中納言兼壽と改める。その後、本願寺と姻戚関係にあった大和興福寺大乗院門跡経覚について修学。父を補佐し門末へ下付するため、多くの聖教を書写した。永享6年(1434)識語をもつ『浄土文類聚鈔』が、蓮如により書写された現存する最古のものである。永享8年(1436)、祖父の第6巧如が住持職を父に譲り、4年後の永享1210月141440)に死去した。嘉吉2年(1442)に第1子(長男)順如が誕生する。文安4年(1447)父と共に関東を訪ね、また宝徳元年(1449)父と北国で布教する。享徳4年(1455)最初の夫人、如了尼が死去する。長禄元年(1457)、父の死去に伴い本願寺第8代を継ぐ。留主職継承にあたり、異母弟応玄(蓮照)を擁立する動きもあったが、叔父如乗の主張により蓮如の就任裁定となった。この頃の本願寺は多難で、宗派の中心寺院としての格を失い、青蓮院の一末寺に転落していた。青蓮院の本寺であった近江比叡山延暦寺からは、宗旨についても弾圧が加えられた。これに対して蓮如は延暦寺への上納金支払いを拒絶するなどした。延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定、翌1月9、同寺西塔の衆徒は大谷本願寺を破却する。3月21、再度これを破却。蓮如は祖像を奉じて近江の金森堅田大津を転々とする。更に蓮如と親友の間柄であった専修寺真慧が、自己の末寺を本願寺に引き抜かれた事に抗議して絶縁した(寛正の法難)。文正2年(14673月、延暦寺と和議。条件として、蓮如の隠居と順如の廃嫡が盛り込まれた。廃嫡後も有能な順如は蓮如を助けて行動する。応仁2年(1468)、北国、東国の親鸞遺跡を訪ねる。応仁3年(1469)、三井寺の庇護のもとに大津南別所に顕証寺を建立、順如を住持として祖像を同寺に置く。文明3年(14714月上旬、越前吉崎に赴く。付近の河口荘は経覚の領地で、朝倉孝景の横領に対抗するため蓮如を下向させたとされる。7月27、同所に吉崎御坊を建立し、荒地であった吉崎は急速に発展した。一帯には坊舎や多屋が立ち並び、寺内町が形成されていった。信者は奥羽からも集まった。明応8年(1499年)2月20、死に際し石山御坊より山科本願寺に帰参。3月20、下間蓮崇を許す。325日(1499)山科本願寺において85歳で没した。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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