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『歴史の時々変遷』(全361回)57”富士川の戦“ 「富士川の戦い」平安時代後期の治承4年10月20日(1180)に駿河国富士川で源頼朝、

富士川8 (2)『歴史の時変遷』(全361回)57”富士川の戦“

「富士川の戦い」平安時代後期の治承410月201180)に駿河国富士川源頼朝武田信義平維盛が戦った合戦である。治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである。石橋山の戦いで敗れた源頼朝は安房国で再挙し、進軍しながら東国武士がこれに参集して大軍に膨れ上がり、鎌倉に入る。一方、甲斐国で挙兵した武田信義らは駿河国目代を討ち取った。その両者が駿河国で合流し、都から派遣された平維盛率いる追討軍と戦い勝利し、頼朝は南坂東で、武田信義ら甲斐源氏は甲斐駿河遠江での割拠を確立させた。治承三年の政変により知行国主の多くが変更となり、それに伴い坂東は新知行国主の息のかかった平氏家人や平氏方目代により、上総氏千葉氏藤氏などの旧知行国主に近い豪族たちが圧迫されていた。圧迫されていた豪族達は反撃の機会を窺っていた。治承48月171180)、伊豆国に流されていた義朝の三男・頼朝は以仁王令旨を奉じて、舅の北条時政土肥実平佐々木盛綱らと挙兵し、伊豆目代山木兼隆の館を襲撃して殺害した。だが、続く8月23石橋山の戦いで頼朝は大庭景親伊東祐親率いる平家方に惨敗してしまう。頼朝は山中に逃げ込んで平家方の追跡をかわし、土肥実平の手引きで船を仕立てて真鶴岬神奈川県真鶴町)から安房国へ向かった。頼朝に味方していた三浦一族も平家方の畠山重忠らに本拠衣笠城を攻められ、城を捨てて海上へ逃れた。★歴史を辿れば 栄枯盛衰の攻防に生きた 葛藤の光景が見えてくる。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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