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『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)169“足利義澄” 足利義澄(1480~1511)室町幕府11代将軍。明応3年(1494)から14間在職

義澄1『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)169“足利義澄”

足利義澄(1480~1511)室町幕府11代将軍。明応3年(1494)から14間在職。堀越公方足利政和の第二子。伊豆に生まれる。母は武者小路隆光の女。父は8代将軍・足利義政の異母兄である堀越公方足利政知。はじめ法名を清晃といい、還俗して義遐、義高、そして義澄。正室は日野富子の姪にあたる日野阿子長享3年(14893月、従弟の9代将軍・足利義尚が死去して義政が後継者を失い、翌年に義政も死去して室町幕府の将軍の座が空位となると、清晃も後継者候補の1人に挙げられたが、この時は義政の未亡人・日野富子の推挙で従兄で伯父・足利義視の子である足利義材(のちの義尹)が10代将軍に迎えられた。富子は清晃には自分が義尚と暮らしていた小川殿を譲ることにする。延徳2年(14904月27にこの意向が示されると、義材の父である義視は富子が清晃を次期将軍に立てる準備と疑い、翌月に小川殿を破却してしまった。これをきっかけに義材と富子との関係は悪化してゆくことになる。ところが、富子が死去し、義澄も成長すると自ら政務を行おうとして政元と対立、文亀2年(15022月には政元が管領を辞任する意向を示して丹波国に下って義澄に慰留され、8月には義澄が岩倉の金龍寺に引き籠ってしまった。復帰を求める政元や伊勢貞宗に対して、義澄は武田元信相伴衆登用や京都に滞在していた義材の異母弟の実相院義忠の処刑を求め、政元もこれを認めた。だが、義忠殺害によって政元は義澄に代わる将軍候補を失ったことで義澄を廃することが不可能となり、しばらくは義澄と政元は政治的には対立しつつも協力関係を維持し続けた。 また、永正元年(1504)に細川氏家臣である摂津守護代薬師寺元一が政元によって守護代を更迭されそうになった時には義澄が政元に解任の中止を命じている。永正4年(1507年)に政元が暗殺され細川氏の家督をめぐる内訌が生じ(永正の錯乱)、翌永正5年(15084月、前将軍・義尹を擁立する大内義興の軍が上洛してくるとの報により、近江国六角高頼を頼って朽木谷、さらに蒲生郡水茎岡山城に逃れた。7月、義澄は将軍を廃され、義尹が将軍に返り咲いた。その後、再び勢力を盛り返そうとして細川澄元三好之長長秀父子を京都に侵攻させるなどしたが、その度に細川高国・大内義興・畠山尚順らに敗れた。また、義尹の暗殺を謀ったりもしたが失敗している。永正7年(1510年)には義尹の命を受けた高国・義興らの近江侵攻を受けるが、近江国人衆を糾合した軍勢でもって勝利した。さらに豊後国大友親治播磨国赤松義村らに援助を求める御内書を送るなどして、将軍復帰を目指した。しかし、永正8814日、義尹・高国・義興との決戦(船岡山合戦)直前に水茎岡山城で病死した[享年32(満30歳没)。★歴史を辿れば 栄枯盛衰の攻防に生きた 葛藤の光景が見えてくる。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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