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『歴史の時々変遷』(全361回)56“南都焼討” 「南都焼討」治承4年12月28日(1181)に平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が、東大寺・興福寺

 南都4 

『歴史の時変遷』(全361回)56“南都焼討”

「南都焼討」治承412月281181)に平清盛の命を受けた平重衡平氏軍が、東大寺興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件。平氏政権に反抗的な態度を取り続けるこれらの寺社勢力に属する大衆(だいしゅ)の討伐を目的としており、治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである。平氏と興福寺の緊張関係は平氏の福原行幸後に一定程度緩和されていたが、この年の末に近江攻防で園城寺・興福寺の大衆が近江源氏らの蜂起に加勢し、それによって平氏は1211日に平重衡が園城寺を攻撃して寺を焼き払うと、いよいよ矛先は興福寺へと向くことになる。清盛は12月25には息子の重衡を総大将、甥の平通盛らを副将として4万の兵を向かわせた。これに対して南都大衆も般若寺奈良坂を築き、兵7千で固めたのである。これに対して27に重衡らも兵を2手に分けて木津方面より侵攻したが、大衆も木津川沿岸や奈良坂・般若寺などで抵抗を続けたため、全体的に平氏軍有利ながらも決着が付かなかった。28に入ると、平氏軍は奈良坂と般若寺を占拠して本陣を般若寺内に移した。『平家物語』によると、その夜、重衡が陣中にて灯りを求めたところ、配下が火攻めの命令と勘違いして周囲の民家に火を放った。それが折からの強風に煽られて大火災を招いたとする。しかし僧坊等を焼き払うのは当初からの計画であった。また『延慶本平家物語』では計画的放火であった事を示唆しており、放火は合戦の際の基本的な戦術として行われたものと思われる。ただ興福寺・大仏殿までも焼き払うような大規模な延焼は、重衡たちの予想を上回るものであったと考えられる。これによって奈良の主要部を巻き込む大火災が発生、興福寺・東大寺などの有力な寺院が焼け落ちて多数の僧侶や避難していた住民など、数千人が焼死した。特に東大寺は金堂(大仏殿)など主要建築物の殆どを失い、中心から離れた法華堂二月堂・転害門・正倉院以外は全て灰燼に帰するなど大打撃を蒙った。興福寺でも三基の塔の他、金堂・講堂・北円堂・南円堂など38の施設を焼いたと言われている。『平家物語』は惨状を「天竺・震旦にもこれほどの法滅あるべしとも覚えず」と語り、この知らせを受けた九条兼実日記玉葉』に「凡そ言語の及ぶ所にあらず」と悲嘆の言葉を綴っている。重衡は29日に帰京し、この時持ち帰られた49の首級は、ことごとく溝や堀にうち捨てられたという。★歴史を辿れば 栄枯盛衰の攻防に生きた 葛藤の光景が見えてくる。興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件。平氏政権に反抗的な態度を取り続けるこれらの寺社勢力に属する大衆(だいしゅ)の討伐を目的としており、治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである。平氏と興福寺の緊張関係は平氏の福原行幸後に一定程度緩和されていたが、この年の末に近江攻防で園城寺・興福寺の大衆が近江源氏らの蜂起に加勢し、それによって平氏は1211日に平重衡が園城寺を攻撃して寺を焼き払うと、いよいよ矛先は興福寺へと向くことになる。清盛は12月25には息子の重衡を総大将、甥の平通盛らを副将として4万の兵を向かわせた。これに対して南都大衆も般若寺奈良坂を築き、兵7千で固めたのである。これに対して27に重衡らも兵を2手に分けて木津方面より侵攻したが、大衆も木津川沿岸や奈良坂・般若寺などで抵抗を続けたため、全体的に平氏軍有利ながらも決着が付かなかった。28に入ると、平氏軍は奈良坂と般若寺を占拠して本陣を般若寺内に移した。『平家物語』によると、その夜、重衡が陣中にて灯りを求めたところ、配下が火攻めの命令と勘違いして周囲の民家に火を放った。それが折からの強風に煽られて大火災を招いたとする。しかし僧坊等を焼き払うのは当初からの計画であった。また『延慶本平家物語』では計画的放火であった事を示唆しており、放火は合戦の際の基本的な戦術として行われたものと思われる。ただ興福寺・大仏殿までも焼き払うような大規模な延焼は、重衡たちの予想を上回るものであったと考えられる。これによって奈良の主要部を巻き込む大火災が発生、興福寺・東大寺などの有力な寺院が焼け落ちて多数の僧侶や避難していた住民など、数千人が焼死した。特に東大寺は金堂(大仏殿)など主要建築物の殆どを失い、中心から離れた法華堂二月堂・転害門・正倉院以外は全て灰燼に帰するなど大打撃を蒙った。興福寺でも三基の塔の他、金堂・講堂・北円堂・南円堂など38の施設を焼いたと言われている。『平家物語』は惨状を「天竺・震旦にもこれほどの法滅あるべしとも覚えず」と語り、この知らせを受けた九条兼実日記玉葉』に「凡そ言語の及ぶ所にあらず」と悲嘆の言葉を綴っている。重衡は29日に帰京し、この時持ち帰られた49の首級は、ことごとく溝や堀にうち捨てられたという。★歴史を辿れば 栄枯盛衰の攻防に生きた 葛藤の光景が見えてくる。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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