『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)167“伊達持宗” 伊達持宗(1393~1469)室町前期の武将。

伊達1『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)167“伊達持宗”

伊達持宗(1393~1469)室町前期の武将。陸奥国伊達郡の国人伊達氏宗の子。幼名は松犬丸。には持宗のほか、別名として泰宗(やすむね)が伝わっており、名乗ったとすれば持宗より前と思われる。「持」の字は室町幕府4将軍足利義持から偏諱を賜ったものである。1409応永16年)鎌倉公方足利持氏に代替わりすると、篠川御所である足利満直と持氏の関係が悪化したため、次第に満直は幕府と結びついて南奥諸氏を反持氏でまとめる工作を行っている。1412(応永19年)父の死により家督を継ぐと、1413(応永20年)鎌倉府(鎌倉公方足利持氏)に対して反旗を翻し、篠川・稲村御所を襲撃する。怒った持氏は畠山氏二本松氏)に持宗討伐を命じ大仏城(福島市)を落とすが、当時は持氏と関東管領上杉氏憲らの対立(上杉禅秀の乱)もあったため、鎌倉側は伊達氏を完全に討伐することができなかった(伊達持宗の乱若しくは伊達松犬丸の乱)。その後、持宗は幕府に帰順し、寺社造営などで功を挙げた。越後応永の大乱1423(応永30年)-1426(応永33年))の際には守護側から援軍を求められ黒川城を攻めている。1426年(応永33年)居城を梁川城(福島県)に移す。永享の乱1438永享10年))では幕府側として鎌倉を攻め、結城合戦に端を発する足利満直の殺害(1440(永享12年))に関与した。享徳の乱に際して1455享徳4年)と1460長禄4年)に幕府から鎌倉府討伐の指令が下る。1462寛正3年)2度目の上洛をし将軍・足利義政に拝謁し、黄金三万疋を献上したという。★歴史を辿れば 栄枯盛衰の攻防に生きた 葛藤の光景が見えてくる。

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Author:侏儒のつぶやき
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