『歴史歳時記豆知識』35・『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。

初期書記②『歴史歳時記豆知識』35・日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文編年体をとる。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。『古事記』と異なり、『日本書紀』にはその成立の経緯の記載がない。しかし、後に成立した『続日本紀』の記述により成立の経緯を知ることができる。『続日本紀』の養老45月癸酉条には、「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」とある。その意味は「以前から、一品舍人親王、天皇の命を受けて『日本紀』の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」ということである(ここに、『日本書紀』ではなく『日本紀』とあることについては書名を参照)。また、そもそもの編集開始の出発点は、天武天皇が川島皇子以下12人に対して、「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことにあるとされる[2]。乙巳の変で中大兄皇子(天智天皇)は蘇我入鹿を暗殺する。 これに憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。 この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上する。 『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ、「国記」は難を逃れ中大兄皇子(天智天皇)に献上されたとあるが、共に現存しない。 天智天皇は白村江の戦いの敗北で唐と新羅連合に敗北し、記紀編纂の余裕はなかった。既に諸家の帝紀及本辭(旧辞)には虚実が加えられ始めていた。そのために『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる『古事記』や『日本書紀』の編纂が、天智天皇の弟である天武天皇の命により行われる。まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に、『古事記』が編纂された。その後に、焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に、さらに『日本書紀』が編纂された。もとの名称が『日本紀』だったとする説と、初めから『日本書紀』だったとする説がある。『日本紀』とする説は、『続日本紀』の上記養老四年五月癸酉条記事に、「書」の文字がなく日本紀と記載があることを重視する。中国では紀伝体の史書を「」(『漢書』『後漢書』など)と呼び、帝王の治世を編年体にしたものを「」(『漢紀』『後漢紀』)と呼んでいた。この用法にならったとすれば、『日本書紀』は「紀」にあたるので、『日本紀』と名づけられたと推測できる。『日本書紀』に続いて編纂された『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』がいずれも書名に「書」の文字を持たないこともこの説を支持しているといわれる。この場合、「書」の字は後世に挿入されたことになる。『日本書紀』とする説は、古写本と奈良時代平安時代初期のように成立時期に近い時代の史料がみな『日本書紀』と記していることを重視する。例えば、『弘仁私記』序、『釈日本紀』引用の「延喜講記」などには『日本書紀』との記述がみられる。初出例は『令集解』所引の「古記」とされる。「古記」は天平10年(738)の成立とされる。『書紀』が参考にした中国史書は、『漢書』・『後漢書』のように、全体を「書」としその一部に「紀」を持つ体裁をとる。そこで、この説の論者は、現存する『書紀』は中国の史書にあてはめると『日本書』の「紀」にあたるとして、『日本書紀』と名づけられたと推測する。また、読みについても、「にほんしょき」なのか「にっぽんしょき」なのか、正確な答えは出されていない。当時、「やまと」と訓読されることもあった「日本」という語を、どのように音読していたかは不明であり、また、奈良・平安時代の文献に「日ほん」という記述があっても、濁音も半濁音もなかった当時の仮名遣いからは推測ができないからである。主な例として、岩橋小弥太は著書『日本の国号』のなかで「にっぽんしょき」の説を主張している。この議論は未だに決着していないが、現在では一般的に「にほんしょき」が通用している。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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