『歴史の時々変遷』(全361回)48”保元の親政“ 「保元新制」、保元元年閏9月18日(1156)に出された宣旨7ヶ条のこと。保元元年令

保元3『歴史の時変遷』(全361回)48”保元の親政“

「保元新制」、保元元年閏9月181156に出された宣旨7ヶ条のこと。保元元年令とも。また、翌保元23月1711574月27)に出された太政官符5ヶ条及び同年10月81157)宣旨35ヶ条との総称として用いられる場合もある。荘園整理令として重視する観点からは保元の荘園整理令と呼ばれる場合もある。前年久寿27月241155践祚した後白河天皇は、保元元年7月の鳥羽法皇の死をきっかけとした兄崇徳上皇との治天の君の地位を巡る争いに軍事力を動員して勝利した(保元の乱)。その勢いに乗じた後白河天皇と信西ら側近集団は新体制の確立を図るために出したのが、この新制である。第一条の冒頭に「九州之地者一人之有也、王命之外、何施私威」は一人(=治天の君)の所有である。王命以外に誰が私的な威光を示すことが許されるであろうか)と述べて王土思想を前面に掲げ、非律令制的な土地所有形態である荘園(私領)の存在を前提として、全ての公領・私領の最終的な支配者は天皇あるいは最上級の権門である「天皇家」の家長としての治天の君(上皇法皇の場合もあり得る)であることを明確に宣言した。○第一条と第二条はいわゆる荘園整理令に相当し、●第一条は後白河天皇が践祚した久寿2724日以後に宣旨を持たずに立てられた荘園を停止し、新立を認めないとした。これによって荘園設置の許認可権を天皇の手中に収めることで荘園規制を行おうとしたのである(「王土思想」の強調はその根拠を同思想に求めたと考えられている)。第二条は既存荘園の本免以外の加納余田及び荘民に濫行の停止を命じた。当時において深刻であったのは新立荘園の増加よりも既存の荘園に住む荘民が「出作」・「加納」と称して荘園の四至の外側にある公田を耕作して、最終的に耕作した公田を荘民の土地の一部と主張して国司の影響力を排除して強引に荘園の一部に編入する行為がしばしば行われていたことが問題視されていた。新立よりもより取締が困難な出作・加納の規制に本格的に取り組もうとしたのが第二条の意図であった。第三条から第五条は寺社及びそこに属する神人悪僧による濫行を規制したもので、第一条にしても第二条にしても問題となる行為の発生は宗教的な権威を背景として公権力の介入を拒んできた社寺勢力とその荘園が舞台になっていることを朝廷側も認識した上で、彼らに対する威圧を目的としたものであった。●第三条は神社・神人に向けて、●第四条は寺院・悪僧に向けて出され、●第五条は国司に対して、自国内の寺社による濫行を規制するための措置を命じている。第六条と第七条は寺社の荘園拡大を規制するために、寺社がその主たる宗教活動である神事・仏事にかかる必要経費を予め報告させるように命じたもので、宗教活動の維持を名目とした荘園の拡大・新立を防ぐ意図があり、●第六条は神社(伊勢神宮以下主要22社)に向けて、●第七条は寺院(東大寺以下主要10ヶ寺)に向けて命じている。その後の治承新制文治新制建久新制と並んで後白河天皇(法皇)を中核とする朝廷政治の基本路線とされたが、だが保元新制が出された当時、鳥羽法皇が後継に指名した後白河の皇太子守仁親王(二条天皇)こそが正統な治天の君であり、崇徳・後白河ともに治天の君の資格を最初から持っていないという見方もあった。治天としての安定性に欠けた後白河の政治的立場が安定して院政を軌道に乗せるためには平治の乱や二条天皇崩御などの諸事件を経る必要があった。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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