『鎌倉・室町の群像』二十三“源実朝” 源実朝(1192~1203)鎌倉幕府の三代将軍。建仁三年(1203)から六年在職。源頼朝の次男。母は北条政子、。

実朝2
『鎌倉・室町の群像』二十三“源実朝”
源実朝(1192~1203)鎌倉幕府の三代将軍。建仁三年(1203)から六年在職。源頼朝の次男。母は北条政子、。幼名を千幡。建仁三年(1203)北条政時は征夷大将軍源頼家を廃止、弟の千幡を鎌倉殿に立てて自らは執権を執った。後鳥羽上皇は千幡を実朝と命名。征夷大将軍に任じた。公武の融和を図るために上皇は元久元年(1204)近臣坊門信清の娘を鎌倉に下し実朝の妻とした。当時上皇は和歌に熱中していたが、実朝も歌道に励み、藤原定価の指導を受けたりした。1205年時政の妻で牧の方が実朝を殺し、娘婿の平賀朝雅を将軍に立てようとした。政子と弟の義時は実朝を守り、時政を伊豆に追い、義時が執権となり政子を助けて幕政を運営した。上皇は実朝との友好関係を通じて地頭の個別的停止を求めるなど、幕府の制御を企てたが、義時はこれらに反発し、実権を持たない実朝は上皇と義時らと板挟みになって苦しむ、ついには上皇と実朝との間に不信が募っていった。健保六年(1218)になり、実朝の官位が異様に昇進し、短期間に権中納言、左中将から権大納言、内大臣を経て右大臣に至った。上皇が官職に果報負けした実朝の破壊を期待した結果だった。1219年右大臣拝賀の為に鶴岡八幡宮に参詣した際、実朝は頼家の遺子公暁に殺された。実朝の死によって上皇は幕府との妥協を断念し、公武融和路線を捨てて、幕府打倒に企てるようになった。

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