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『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)154“北条早雲” 北条早雲(?~1519)室町から戦国の武将。小田原北条氏の祖。

早雲2鎌倉・室町の群像伝』(全186回)154“北条早雲”

北条早雲(?~1519)室町から戦国の武将。小田原北条氏の祖。北条早雲は俗称で、本来の字名は伊勢氏で伊勢新九郎と称した。「早雲」早雲庵の庵号、入道の後早雲庵宗瑞または伊勢宗瑞と称していた。実名を長氏、氏茂と伝えるが確実な資料はない。早雲の出自には、備中伊勢氏説、京都伊勢氏説、伊勢国出身説があるが、近年の研究で、備中の伊勢盛定の子盛時の後身とする説が有力視されてきている。伊勢盛定は、伊勢氏の一族で備中国荏原郷を所領とした備中伊勢氏の庶子で、本宗家である京都伊勢氏の定国の女を室とした。盛時は盛定の次男であったと言う。上洛してあっ鹿が義視に仕え、伊勢を経て駿河今川家の元に下向している。1476年義忠没後の今川家の家督を巡る争いに姉北川殿、義忠嫡子の今川氏親を支持し、小鹿範満の野望を抑え、調停に成功。その任を果たして上洛し、1483年から1487年将軍足利義尚の申次衆を務め、この間建仁寺、大徳寺の門を叩いている。1487年範満を討って氏親の家督の継承を成功させ、その功により富士下方十二郷を与えられ興国寺城主となった。1493年伊豆に乱入したが、これは細川政元が将軍足利義稙を廃し、堀越公方足利政和の次男義高を将軍に擁立するクーデターと連動して行われたと考えられる。早雲が追放した足利茶々丸は、義高に取って母円満院の弟の敵であった。茶々丸はその後も伊豆奪回の機運を狙い早雲と戦い続けたが、1498年8月に自害し、堀越公方足利氏は滅亡した。早雲は1495年頃大森氏の拠る小田原城を攻略し、相模に進出、山内・扇谷両上杉氏の抗争を巧みに利用し、領国を拡大し、1506年相模国西郡の検地を実施。1512年8月三浦義同の岡崎城を攻め住吉城に敗走させ鎌倉に入る。翌年義同を新井城まで追い詰め1516年7月義同・義意父子を討ち滅ぼし、相模全土を収めた。1518年家督を嫡男氏網に譲り、翌年8月15日に韮山に没す。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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