『歴史歳時記豆知識』25・北面武士(ほくめんのぶし)とは、院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛

 hokumenn ohokumenn1.jpg『歴史歳時記豆知識』25・北面武士(ほくめんのぶし)とは、院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと。11世紀末に白河法皇が創設した。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。北面について『愚管抄』は次のように説明している。「此御時、院中上下の北面を置かれて上は諸大夫、下は衛府所司允(じょう)が多く候(さぶらい)て、下北面御幸の御後には箭(や)負(おい)て、つかまつりけり、後にも皆其例也」そこにいわれるように、北面は上北面と下北面に分かれている。「上」(シャウ)は殿上の2間が詰所となって、四位・五位の諸大夫層が中心となる。その多くは文官で、最終的に公卿まで昇進する者もいた。これに対して、「下」(カ、またはケ)は殿上ではなく御所の北の築地に沿う五間屋であり、六位の身分の者が中心となる。近習や護持僧もいるが大部分は武士であり、一般的に北面武士といえば、下北面(北面下臈とも)を指す。創設の時期は、白河法皇の政治介入に批判的だった関白藤原師通が急逝し、摂関家が弱体化した康和年間(10991104)と推測される。当初の北面は近習や寵童(男色の相手)など、院と個人的に関係の深い者で構成されていたが、院の権勢が高まると摂関家に伺候していた軍事貴族も包摂するようになり、その規模は急激に膨張した。新たに北面に加わった軍事貴族は、それぞれがある程度の武士団を従えた将軍・将校クラスであり、元永元年(1118)、延暦寺の強訴を防ぐため賀茂河原に派遣された部隊だけで「千余人」に達したという(『中右記522日条)。従来、院の警護を担当していた武者所は機能を吸収され、北面武士の郎党となる者も現れてその地位は低落した[2]。また白河法皇は北面武士を次々に検非違使に抜擢し、検非違使別当を介さず直接に指示を下したため、検非違使庁の形骸化も進行した。平正盛忠盛父子は北面武士の筆頭となり、それをテコに院庁での地位を上昇させていった。征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)は、朝廷令外官の一つである。「征夷」とは、東夷征討するという意味。征夷将軍(大将軍)は、「夷」征討に際し任命された将軍(大将軍)の一つで、太平洋側から進む軍を率いた。日本海側を進む軍を率いる将軍は征狄将軍(鎮狄将軍)、九州へ向かう軍隊を率いる将軍は征西将軍(鎮西将軍)という。これは、「東夷西戎南蛮北狄」と呼ぶ中華思想の「四夷」を当て嵌めたためとされている。「東夷」に対する将軍としては、和銅2年(70936に陸奥鎮東将軍に任じられた巨勢麻呂が最初であり、「征夷将軍」(通常、征夷大将軍と同一とされる)の初見は、養老4年(720929に任命された多治比縣守である。「征東将軍」の初見は、延暦3年(7842月に鎮守将軍から昇格した大伴家持 であり、「征東大将軍」の初見は、延暦7年(788127に辞見した紀古佐美である。延暦10年(790713に、大伴弟麻呂が征東大使に任命された。延暦12年(792217に、征東使を征夷使と改めた。「大使」はまた「将軍」とも呼ばれていた。『日本紀略』には延暦13年(79411に征夷大将軍の大伴弟麻呂節刀を賜うたとあり、これが「征夷大将軍」の初見とされ、由来としては天皇に任命される軍事指揮官である。また「征夷大将軍」は「征夷」行為に関して現地の軍の最高司令官であり天皇の代理人という権能を有していたことから、武人すべての世俗的な最高司令官としての力が備わるようになっていった。鎌倉中期から明治維新まで、武人である武士が政権を握っていたことから、武士の棟梁としての征夷大将軍は事実上の日本の最高権力者であった。また、天皇によって任命されることから、天皇には世俗的な実力はなくとも、権威は維持することとなった。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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