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『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)151“山名持豊” 山名持豊(1404~1473)室町時代の武将。幕府侍所頭人

もちとよ2鎌倉・室町の群像伝』(全186回)151“山名持豊”

山名持豊(1404~1473)室町時代の武将。幕府侍所頭人。但馬等の守護。法名山名宗全。官途は左衛門佐・弾正少弻。山名時熈の次男。永享3年(1431)兄持熈が将軍足利義教の勘気に触れて廃嫡された後、1433年父から家督を譲られ。但馬・備後・安芸・伊賀の4カ国守護に就任、1435年父の死のよって山名氏一族の惣領を継ぐ。1440年6月以前に侍所頭人と山城守護になり、1441年7月まで頃の在任。同年の嘉吉の乱では搦め手軍の総大将として但馬から播磨に進撃し、赤松満祐を自刃させた。この功によって赤松氏の旧領国播磨は持豊に、備前・美作も山名の一族に与えられた。山名一族は合わせて9カ国の守護になって管領家細川一族の8カ国を凌ぐに至った。細川勝元の室とし、細川氏と連携して勢力安定を図った。1450年に出家。1454年赤松則尚が勝元をとよって赦免されたことに強く反対した為に、将軍義政から、追討されようとしたが持豊が隠居し家督を嫡子教豊に譲って事なきを得た。しかし赤松政則が同じく勝元に頼って赦免されるに至って、持豊と勝元の対立は決定的なった。伊勢貞親と季瓊が足利義視暗殺を図った文正の政変ではなお両者同調したが、畠山・斯波家の家督争いには勝元が対抗して畠山義就・斯波義廉を引き立てて、将軍家の後継争いでも足利義尚を支持したことから、ついに応仁・文明の乱に突入した。海戦当初、持豊を総師とする西軍は押され気味であったが、大内政弘らの参戦で盛り返し、将軍方となった東軍に対抗して義視や南朝皇胤を西軍に迎い入れて名分とした。しかし戦線は膠着状態が続き、1472年持豊から講和を提案したものの、実現を見ないままに、翌年3月18日、持豊は京都の陣中で病死した。★歴史を辿れば 栄枯盛衰の攻防に生きた 葛藤の光景が見えてくる。

 

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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