『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)149“日野富子” 日野富子(1440~1496)室町幕府第8代将軍足利義政の正妻(御台所)。

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『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)149“日野富子”
日野富子(1440~1496)室町幕府第8代将軍足利義政の正妻(御台所)。応仁・文明の乱後の幕府行政を行い、辣腕を振るった。利益優先の果断な政策で知られる。日野重政の女。康生元年(1455)叔母の日野重子の子である義正に16歳で嫁いだ。義政は20歳である。義政が将軍後継者として弟の義視を指名してのち、義尚を産んだので、それを将軍にしたさに富子が画策したことにより応仁・文明の乱が勃発したと言われる。乱後に書かれた「応仁記」にはすでにある話あるが、そう簡単に言えず、乱は管領家の細川勝元による義政の棚上げ、畠山・斯波管領両家の後継争い、山名宗全と勝元の不仲などが絡んでいた。1477年大内氏の帰国による実質的な戦乱の終結は富子の政治折衝によるものである。さて乱後の幕府政治を主導した兄勝光の死後の1476年から、子の9代将軍義尚が成人するまでの1483年頃までの7年間施政者として、執政期間である。富子は施政としては、1480年の徳政禁制が銭主の債権を確認して、債務破棄を認めなかったこと、戦乱に荒れた内裏の修理費用の為に京都7口に関所を立てて、その反対の土一揆を弾圧したことがあげられ、悪評の原因となっている。彼女自身、土倉に7万貫文を超える蓄財をして、敵方の畠山義就に用立てたなどと言うこともある。富子の施政が利権的であるのは否めないが、女人政治だから、ことさらに悪評された面がある。なお、富子が執政を行えたことを、当時の「家」を中心とする幕府機構の在り方による将軍御台の権限を考えるものと、公家と武家との接点に限定すものの諸説がある。義政、義尚死亡後、義材、義澄将軍の擁立にも関わった。後に決裂して幕府への発言権を失た。しかし天皇家とは交渉を有し、財宝は巨万、死後の絵像は天皇生母と同じ格式で描かれている。★歴史を辿れば 栄枯盛衰の攻防に生きた 葛藤の光景が見えてくる。
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