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『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)146“細川勝元” 細川勝元(1430~1473)室町中期の武将。幕府管領。

 細川勝元1鎌倉・室町の群像伝』(全186回)146“細川勝元”

細川勝元(1430~1473)室町中期の武将。幕府管領。摂津・丹波・讃岐・土佐の守護。細川持之の子。官途は右京太夫。嘉吉2年(1442)父の病没により13歳で家督を継ぐ、1445年管領となり、以後前後3回、通算21年間在任したが、政治上の顕著な治績はない。細川氏一族の拡大しょうとして、自ら応仁・文明の乱の一因となったとされる。勝元はじめ山名持豊の娘婿にとなって、嘉吉の乱後、勢力を強めた山名氏と連携、畠山氏に次いで斯波氏の家督争うに介入して両氏を支配下に置こうとした。赤松氏の再興にも支持した。そかし次第に持豊と対立を深め、伊勢貞親と奇瓊が足利義視暗殺を図った文正の政変ではなお協調したものの将軍継嗣として勝元が義視を支持したのに対して持豊が足利義尚を支持するに及んで対立は決定的となった。1467年勝元方の管領畠山政長が持豊によって失脚させられたことに、勝元は武力で持豊を打倒すべく京都に一族をはじめ、同盟守護を集結させた。こに持豊も対抗し、応仁・文明の乱に突入した合戦ははじめ勝元側方に東軍が優勢で、幕府を占拠し将軍旗も受けたが、まもなく持豊方は西軍が巻き返しに出て、やがて戦況は膠着状態が続いた。打開策がないままに、1473年5月11日に持豊が没し、二か月後には勝元も病死。決着が付かないまま、時代は変わっていったが、京の町は至る所、焼失した寺社や町跡だけが残された。

 

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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