『歴史の時々変遷』(全361回)40“阿久利川事件” 「阿久利川事件」前九年の役中の天喜年(1056)に源頼義の部下が阿久利川畔の野営

 あくり4 (2)『歴史の時変遷』(全361回)40“阿久利川事件”

「阿久利川事件」前九年の役中の天喜年(1056)に源頼義の部下が阿久利川畔の野営において何者かに夜襲を受け、人馬が殺傷された事件である。前九年の役長期化の原因のひとつとなった。奥州における安倍頼良の勢力に対し、朝廷は1051陸奥守藤原登任に討伐を命じたが、鬼切部(鬼首)の戦いで逆に敗北した。登任の敗北により、公家ではなく武士である源頼義を陸奥守として東下させた。頼義着任間もない1052、上東門院藤原彰子の病気平癒祈願の大赦布告が発せられ、罪を免ぜられたこともあり、頼良は源氏の棟梁である頼義に服従し、名を頼時と改め忠勤を約した。1056年頼義の任期が終わる頃のある日、鎮守府(胆沢城)から国府(多賀城)に頼義が帰ろうとして阿久利川(磐井川?・一迫川)畔に野営した際、頼義のもとを密使が訪れ、頼義の部下の藤原光貞藤原元貞が夜襲を受けて人馬に損害が出るという事件があったことを告げた。そこで頼義が光貞を呼び出して心当たりの犯人を尋ねると光貞は「安倍頼時の長男、貞任が光貞の妹を妻にしたいと願ったが、光貞はいやしい俘囚にはやらぬと拒んだのを逆恨みしての襲撃以外考えられない」と申し立てた。これを聞いた頼義は大いに怒り真相を確かめることなく貞任を呼び出して処罰しようとしたが、父の頼時は、「貞任ハ愚ナレドモ父子ノ情、棄テラレンヤ」とこれを拒絶した。「藤原経清の離反」説は、この時点で国府の将として衣川の南にいた平永衡藤原経清は頼義に従っていたが、2人とも頼時の婿であり微妙な立場であった。この時に永衡は陣中できらびやかな銀の兜を着けているのでこれは、敵軍への通牒でないかと永衡を誣告するものがあり、これを信じた頼義によって永衡は殺された。身の危険を感じた経清は、国府襲撃の偽の情報を流して頼義軍が多賀城へ急行している間に安倍頼時の軍に帰従した。この離反のため一時国府の政令がおぼつかなくなるほどで、前九年の役平定に時間を要することとなった。「陰謀説」説、陸奥話記』によると、頼時はこの事件の直前も頼義を饗応しており、間もなく任期が切れて京へと戻る頼義を敢えてこの時期に刺激する意味は無い。このことから、この事件は頼義か藤原説貞(光貞、元貞の父)が頼時の暴発を狙って仕掛けた罠であ★歴史を辿れば 栄枯盛衰の攻防に生きた 葛藤の光景が見えてくる。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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