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『古事記が描く説話の憧憬』全61回(楽しい古事記) 41・「倭やまと建たける命みことの英雄伝の説話」後編 “倭健命の東征”

猛1 (2)『古事記が描く説話の憧憬』全61回(楽しい古事記)

41・「(やまと)(たける)(みこと)の英雄伝の説話」後編

“倭健命の東征”

それから天皇は、重ねて倭健命に「東方の十二か国の、荒れて従わない神と、服従しない人どもを従わせ平定せよ」と仰せになり、吉備臣らの祖先の、名は御友耳建日子を付き添いとして派遣する。

また柊の木で作った長矛を、天子の使者である印として授けになった。

この様な帰京して間もない倭健命に荒々しい人どもを撃ちに私を派遣になり、都の帰ってもどれ程の時もおかず、軍隊も下さらず、今度は東方の十二か国の荒々しい人どもに平定にお遣わしになる。

この事から考えても、私を死ねと思われている」と思わず泣きながら退出されて行く時に、倭姫命は草薙ぎの剣を授けて「もしも危急の事があったならば、この袋を解きなさい」と言われた。

この後、倭健は尾張の国に到り、尾張の国造の祖先の、美夜受比売(みやずひめ)の家に入られた。倭健命はその美夜受比売と結婚をしようと思われた。

約束をされ、東国に向かって進まれ、悉く山河の荒々しい、神と服従しない人どもを、言葉で手懐けて平定された。

次に相模の国にお行きになった時には、その国造が、偽って「この野の中に大きい沼があります,そこに住む神はひどく凶暴な神です」と申した。

そこでその神を見ようと、その野の中に入られたら、即座に国造は火を野に放った。

そこで倭健命は騙されたと知って、その叔母の倭比売(やまとひめ)(みこと)から下された袋の口を解き、その中を覗くと、火打石があった。

そこで草薙ぎの剣で草を刈り払い、その火打ち石で火を起こし、向かえ火で燃え盛る日焼き退けた。やっと野の中から脱出して戻って来られた。

ことごとくその国造らを切り殺し、火を付けて焼いてしまわれた。

今もその地を焼遣ヤキツ(焼津)のかもしれない。

そこから更に東に向かって行き、走水の海を渡る時に、その海峡の神が、波を荒立て、船を旋回させるので、船が前に進めない。

そこで倭健命の后で、名を弟橘比売(おとたちばなひばい)(みこと)が「私が御子の代わりに海に入ります。御子は命ぜられた任務を成し遂げ、天皇に報告なさいませ」と申した。

后が海に入ろうとする時に、菅の畳を八重、皮の畳を八重、絹の畳を八重、それらを波の上に敷いて、その上に下りておいでになった。

すると、その荒立つ波が自然に凪いで、御船は進むことが出来たと言う。

その時に、后が歌っていう。

“相模国の小野に燃えて迫る火の 火の中に立ってわたしの名をお呼びくださったあなたよ”

それから、七日経って、后の櫛が浜辺に流れ着いた。その櫛を取り上げ、御陵を造って収めた。

そこからさらに東に入って行き、悉く荒々しい蝦夷どもを手懐けて、また荒々しい山河の神どもを平定し、都へ帰途についている時に、足柄山の坂本に至り、食事を召し上がっている時に、その坂の神が、白い鹿に姿に変えて来て立った。

そこで喰い残しの蒜の一部で、もっと近くに引き寄せて、投げ打ちされると、鹿の目に命中打ち殺した。

それから、その坂の頂に登り立ち、三度溜息されて「我が妻よ」と言われた。

それから、その国を名付けて阿豆麻と言うのである。

そして、その国から甲斐国を越え出て、酒折宮に滞在された時に、歌っておしゃる。

新治 筑波と通り過ぎて

幾夜寝たことだろう

すると、お傍で灯し火を焚く老人が、御歌に続けて歌って言う、

日数重ねて 夜は九夜

日は十日でございます

そこでその老人を誉めて東の国造の地位を与えた。

その甲斐から信濃国を越え、信濃の坂の神を懐つけて、尾張国に戻ってきて、先日約束した美夜受比売のもとに入りになられた。

倭健命を迎え、美夜受比売が、御馳走を作り差し上げた時に、酒も捧げ献上をした。ところが美夜受比売は着物の裾に月経の血が付いていたので倭建命は歌われた。

“天の香久山の空を

鋭く尖った新月の鎌のような姿で 渡る白鳥

その長くのびた首のように弱く細い たおやかな腕

かき抱きたいと 我はするけれど

共寝をしたいと 我はおもうけれど

あなたが着ておいでの 羽織の裾に

月が出てしまっているとは

そこで美夜受比売は歌に答えていう。

日の神の御子孫

我が大君よ

年が来て過ぎて行くと

月は来て去って行く

まこともっとも当然 あなたを待ちきれないで

わたしの着ている 羽織の裾に

月が出たのでありましょうよ“

こうしたことがあって、結婚なさって、倭健命は、その身に帯びていた句薙ぎの剣を、美夜受比売の元に置いて、伊吹山の神を殺しに行かれた。

☆倭建命の英雄伝の東征説話・倭建命の九州と出雲の征伐は勇ましく凱旋した倭健命に待っていたのは休息ではなく次の征伐と平定の使命であった。

また今回も伊勢の叔母ヤマトヒメに会って、苦しい胸の内と愚痴を聞いてもらい、草薙ぎの剣と急場の袋を貰い受けて、伊勢・尾張国を経て相模国でだまし討ちに遭い国造に悪い神を退治、叔母の急場の袋に助けられ難から逃れた。

こうして東征の行の行程は難なく平定、さらに東に進み走水(浦賀水道)で大嵐に遭遇、船は荒波に翻弄されどうしても前に進まず、同行していた倭建命の妻オトタチバナヒメが、海神を鎮めるために、自ら海に身を投げた。

七日後には浜辺にヒメの櫛が流れ着いた。

倭健命はそれでも曲げず、東国の蝦夷を平定し、東征を終えた。行く先々での節々の出来事に地名が付けられていった。

倭建命の使命は日本各地の平定に繋げた功績は、大和朝廷の確立に寄与した。その反面、西方の熊襲、出雲、東国の蝦夷の先住民族の征服と従属が求められたことだろう。

熊襲、出雲、蝦夷の名称やその扱いは野蛮な民族として、隷民として格差と差別の上に、長い時代の経緯を経て融和をもって、大和民族の統一と言う形で国家形成がなされたのであろう。

倭健命の勇ましい活躍と終末の哀愁に帯びた物語は日本人の感涙の誘うものであった。

また凛々しく、勇猛に戦いに、帰郷の半ばで朽ち果てた倭健の思いに共感を覚え、大和王朝の象徴として賞賛され伝えられてきた。

“思国歌“

このときに「この山の神は素手でも直ぐに殺してくれよう」

と言われて、その山に登ってゆく時に、山の曲り角で、突然白い猪に出遭った。

その大きいこと、そこで倭建命は声高に「この白い猪に姿を変えているのは、山の神の使いだ。今殺さずとも帰りに殺せばよい」と言われて、山を登って行かれた。

すると山の神は雹を降らせ、倭健命を打ち惑わしたのである。

山から戻り下られて、玉倉部の清水に至り着いて、休憩をしている時に、心も少しずつ、覚めて来て、正気に戻られた。そこでその清水に名付けて、居寤(いさめ)の清水と言うのである。

玉倉部から発って、当芸野の辺りに来て「我が心はいつもずっと自由自在に空を飛んで行けた、今我が足は心の欲する様に歩けず、たぎたぎしくなってしまった」と言われた。

その地を当芸と言う。

そこから少し進んだ処で、たいそう疲れた様子で御杖をつき、のろのろとゆっくり行っただけで疲れた様子なので、その地の由来が杖衝坂(つえつきさか)と言う。尾津崎の一本松の下に着かれたところ、以前ここで食事をした時に、そこにお忘れになった御剣が無くならずにそのままあった。そこで歌われた。

尾張国に まっすぐに向かい合っている

尾津崎の 一本松 あまえよ

一本松 おまえが人であったならば

太刀を帯びさせようものを 着物を着せようものを

一本松 おまえよ

そこから行った所に、三重村に着かれた時に、また「我が足は、まめ・たこ・むくみで三重のまがり餅のよう、ひどく疲れてしまった」と言われた。

その名の地名を三重と言う。

そこから少し行くと、能煩(のぼ)()に着かれた時に故郷を思い出して歌われた。

倭は 国ももっとも秀でたところ

重なり合っている山々の 青い垣

山々に囲まれた 倭は すばらしい

また歌って、

命の 無事であった人は

平群のやま

大きな白檮(かし)の葉を

かんざしとして挿しなさい おまえたち

この歌は思国歌である。また歌っておられる。

いとおしい 我が家の方から

雲が立ち渡ってくるよ

これは片歌である。

この時の病気がたいそう急変した、それでも、歌いになられた。

乙女の 床のかたわらに

我が置き残した 太刀

その太刀よ

と歌い終わり、崩御された。そこで早馬の使者を、都の天皇にお届け申し上げた。

白鳥の陵

倭建命の訃報を受けて、大和においでになる后たち御子たちは能煩野に下って来て、御陵を造り、御陵の脇の田を這って、廻って哀しみ声を上げて泣いた。歌って言う。

かたわらの 田の稲の茎に

その稲の茎に 這いからまっている

山芋の蔓よ

そのとき、倭健命の霊魂が、大きな白い千鳥になり、天に飛翔して、浜に向かって飛んでお行きになった。

これを見て、その后と御子たちは、そこの篠竹の刈り株に、足が切り裂かれ手も、その痛みを忘れて、声を上げて泣きながら追った。この時歌ってる。

浅い篠原を行くと 篠竹に腰がとられる

鳥のように空を飛んでは行かれず 足でとぼとぼと行くもどかしさよ

次には、そこの海水に漬かって、よたよた行く時、后と御子たちが歌っていう、

海に入って行くと 海水に腰をとられる

広い河に 生えている水草のように

海では 波にゆらゆらもたつくばかり

また白い千鳥が飛んでその磯に止まっておいでの時に、后と御子たちが歌っていう。

浜の千鳥よ 浜からもう追って行ないので

潮伝いに追いかけることよ

この四首の歌はどれも命のご葬儀に歌った。そしてこれらの歌は天皇の大葬の儀に歌われる。

それから千鳥はその国から飛翔してお行きになって、河内国は志紀にお止りになった。

そこでその地に御陵を造って、鎮座申し上げた。その御陵名付けて白鳥御陵と言う。

しかし倭建命は諸国に巡行なさった時に、久米直の祖先の、名は(なな)(つか)(はぎ)が、長い間ずっといつも調理人として従事した。

 

☆倭建命の思国の説話・足柄山から甲斐国、信濃国を越えて終わりに辿り着き、往時にミヤズヒメと約束した結婚は、倭健命の美夜受比売との淡い恋の語りを、抒情詩に歌われた心情と客死した倭健のもの悲しい、心境を散文詩的に語り歌われているのは、『古事記』として、歴史的、文学面においても深い価値のある物語である。

甘い恋に酔い浸ったためか、気の緩みか、伊吹山の、山の神の征服に、叔母から授かった草薙ぎの剣を置いて出発した。

倭健命は伊吹山を登る途中に、白い猪に出遭い「帰りに殺せばよいと」軽くあしらった。侮られたと怒った白猪は山の神であった。荒ぶる山の神は雹を降らし、倭健を打ちのめした。

伊吹山の平定に失敗した倭健は、故郷の大和に向かう途中で伊勢国の能煩野に辿り着き「やまとは国のまほろば・・・」と歌いながら息絶えてしまう。

早馬で知った倭健の家族は能煩野にやって来て葬儀を行った。倭健の魂は大きな白鳥になって大空に舞い上がり、懐かしい大和に向かった、やがて河内国は志紀に留まった。

再び大空に舞い上がった白鳥は天高く飛んで行った。

河内の羽曳野に白鳥陵があって、再び舞い降りたとされる、大鳥神社が和泉国に説話があって、大和王朝の英雄の伝説は、大和・河内に広く伝わっている。

倭健の「やまとは国はまほろば」と思いを馳せた大和は日本人の根源とされる所以である。

◎大和はくにのまほろばの語源は、倭建の大和への望郷を念から発したのだろう。

☆倭建命の東征の場面に大和への郷愁の「“思国歌”」の歌が詠まれていて、倭建の心情を歌いこまれ、西に東に戦い疲れ、遥か向こうの“まほろば”を偲びつつ朽ち果てて行くもの悲しさの場面も描かれている。

※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。

 

 

 

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プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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