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『古事記が描く説話の憧憬』全61回(楽しい古事記) 倭建の英雄伝説話 兄を握りつぶした小碓命

猛3『古事記が描く説話の憧憬』全61回(楽しい古事記)

倭建の英雄伝説話

兄を握りつぶした小碓命

天皇は小碓(おうす)(みこと)に「前の兄の大碓(おおうす)は朝夕の食事に顔を出さないのか、たっぷりと丁寧にお前が(さと)しておくように」と仰せになった。

その後五日経っても、大碓は食事に出てこないので、天皇は兄が未だ御膳に陪席しないではないので,小碓に「お前の兄は未だ出てこないではないか、教えたのか」の問いに、小碓命は「もう、“ねぎ”ました」と申した

天皇は「どのように“ねぎ”を諭したのか」と仰せになった。小碓命は「明け方兄が厠に入った時に、待ち構え捕まえて握り潰し、手足をもぎ取り“ねぎ”して(こも)にくるんで捨てました」と申した。

この事があって天皇は、小碓命の性格の激しく荒荒しいことに恐れ、遠ざけるようになり「西の方に熊曽建が二人いる。これら服従しない無礼な奴ら、お前が言って退治せよ」と命じられた。

熊襲(くまそ)征伐(せいばつ)

当時まだ少年期であった小碓に西の方の二人いる熊襲建を征伐命じられた。

粗暴な性格に景行天皇から疎んじられた小碓命は、叔母の倭比売(やまとひめ)(みこと)から衣装を貰い、剣を懐中に入れて行かれた。

やがて熊襲健の家のある所まで行かれて、様子を見ると、其の家の周辺を三重にも軍隊を廻らし、その中の室を作ってその中に居た。

その新築である室の落成祝いに宴が開かれて、騒がしく御馳走の準備が行われていた。

小碓はその近くを出歩いて、その日の宴を待たれた。宴の当日、小碓は少年の髪型で結って、髪を梳きおろし、叔母に授かった衣装に身を変装した。

外見上は女性と変わらないほどであった。

熊襲健の兄弟の二人とも、変装した倭健の乙女姿に人目可愛いと思って、自分たちの間に座らせ、盛んに宴に興じていた。

宴たけなわと言う時に、小碓命は懐中にある剣を取り出し、熊襲健の衣の襟を掴み、剣を健の胸から刺し通した時に、弟健はそれを見るや恐を成して逃げ出した。

小碓命はその室の階下まで追いかけ、弟建の背を捉えて、尻から突き通した。

そこで熊襲健が申すに「どうかその刀を動かさないでください、自分には申したいことがあります」と言った。

すこしだけ許し、押し伏せていた中で熊襲健は「あなた様は一体どなたですか」と言った。そこで小碓命は「我ら(まき)(むく)の日代宮に居らしゃる、大八島国を統治される、大帯(おおたらし)日子淤斯(ひこおし)()和気(わけ)天皇(すめらぎのみこ)の御子、名は倭男具那(やまとおとこぐな)(みこ)である。お前ら熊襲建の二人が、天皇に服従せず、無礼である。天皇はお前たちを殺せと仰せになり、我をお遣わしになった」と言われた。

すると熊襲健は「まさしくそうでありましょう。西の方面では私ども他、勇ましく強い人はいません。ところが大和の国に私どもより強く、勇ましい男がおられたとは。そこで自分の御名前を献上致したく存じます。

今後”倭健御子“と称え、名付けましょう」

小碓命は聞き終わると、熟した蔕の落ちた瓜を切るように、熊襲健を切り裂いて殺しになった。この時以後、お名前を称え申し、倭健命と言うようになった。

そして都に帰られる時には、山の神、河の神と宍戸の神を皆へいてして帰京された。

☆倭建命説話・景行天皇の記述は倭健伝説に隠れて、その存在の印象は薄く、八十人の皇子を皇女がいたとされ、倭健が九州、出雲、東征に数々の平定伝説に、景行天皇も九州各地を平定し、地域の名称を残している。それが継体の磐井の反乱と混同されることがあって、九州平定は数々の伝説が交錯をするものである。

天皇の補佐をする武内野宿祢の現れるのも景行天皇の御世からである。

大帯(おおたらし)日子淤斯(ひこおし)()和気(わき)天皇(てんのう)は景行・成務・仲哀天皇の名に使われているのに何か深い理由があるのだろうか、と専門家の研究も未解決で間近いかと推測されている。

天皇は多くの妃を持ちながら、美しき姫には興味旺盛であったようで、美濃国の祖先の大根王の娘の、名は兄比売・弟比売の二人の乙女を、その容姿が整って美しいと聞きになって、お召になろうとした。皇子の大碓(おおうす)(みこと)を派遣してお召しになられた。

その大碓命は天皇の為に召し上げないで、自分のものとして二人の乙女と結婚をされた。その代りに別の女性を探して、偽って天皇お求めの乙女と名乗らせて、天皇に差し出した。

しかしその偽装もすぐに発覚したが、しばらく恨み言を見ら我慢された。差し出された女とも婚姻をしないで、悩まれていた。

所が大碓命は兄比売と結婚して生んだ子が、(おし)黒兄(くろえ)日子(ひこ)(みこ)弟比売と結婚して生んだ子(おし)黒弟(くろおとうと)日子(ひこ)(おう)である。

☆景行天皇は多くの御子を残し、諸国に要職に就け派遣した意味では、大和朝廷の基礎を成したとも考えられるが、温厚で気弱な性格の天皇か、小碓にも大碓を殺したことに、罰も責めもしなかった。ただ好色で多くの妃と御子を輩出したこと以外、特に天皇自身に関わる記述は少ない。

☆倭建命の英雄伝の熊襲説話・景行天皇の命で、大和を旅立った、小碓は熊襲の首長クマソタケル兄弟を征伐に向かう。熊襲は隼人と同じ九州の部族と考えられて、大和王朝に服従しなかったのだろうと推測できる。海幸彦、山幸彦の登場の海幸彦ホデリも隼人だとされている。

熊襲もの九州の先住民族として、大和に対抗し不服従しなかったので、景行天皇は武勇に長けた小碓に派遣したのであろう。

畿内から九州の長旅の末に、クマソタケルの館に到着したヲウスは護衛に行く重にも要塞が廻らされては、変装して中に潜入しかなかった。

叔母の貰った衣装が役に立って女装をした。少年のヲウスは女装しても何ら不思議に感じられず、クマソタケル兄弟の部屋に潜入できて、一気に兄のクマソタケルを胸に剣を突き刺すことができた。

『古事記』では近親結婚とか殺戮の場面など、仏教の倫理観に影響されず、自然な状況に描かれている。

クマソタケル兄弟を切り刻み、殺すのは古代の中国でも同じ、根絶やしにをしないと、報復を起こさせないための防御である。

弟のクマソノタケルには剣で尻から突き刺し、串刺しにした。クマソノタケルは今際の際に、名前「倭健」の名を称えて送る。潔さを著している。

以後ヲウスは倭健と名乗った。

☆叔母の倭姫命はイクメイリビコの娘で、伊勢の祭祀を命じられた女性、倭健の節々に助けの手をだす。

☆九州の鹿児島には隼人塚があって幾度となく大和と朝廷と戦いを繰り返したようで、熊襲・隼人塚の二つある。

霧島市の塚からは平安時代の石像が出土し、隼人の姿を伝えるものとして注目を集めている。

☆ヤマトタケルの熊襲建の征伐には正攻法の戦いでない。少々卑怯な作戦は勝つことに方法を選ばない。天孫に刃向うの者に対して容赦のない使命を受けている。

出雲建征伐

帰京の途中、出雲に入り滞在をした。それはこの地の出雲健を殺そうと思っての事、到着するとすぐに、出雲健と交友関係を結ばれた。そこで密かに赤橋の木で偽物の刀を作り、それを自分の方として身に着け、出雲健と一緒に斐伊川で水浴をした。

倭健は先に川から上がり、出雲健が解いて置いてある太刀を取り上げ身に着けて「太刀を交換しよう」提案された。それで出雲健が川から上がって、倭健命の偽太刀を身に着けた。

すると倭健は挑発し「さあ太刀合わせをしよう」と言われた。めいめいが身に着けた太刀を抜く時に、出雲健は偽物の太刀で抜けなった。

そこで倭健は太刀を抜いて、出雲健を打ち殺してしまった。

そして、御歌って言われるに、

出雲健が、腰に付けた太刀は

蔓ばかり幾重にも巻く飾り鞘 刀身無くして ああおかし

このような うち払い平定して 都に上がって 天皇に申し上げた。

 

☆倭建命の英雄伝出雲説話・『古事記』に出てくる、武勇伝には姑息(こそく)であっても、手段を選ばず勝利を治める。勝つための方法の大義名分はあまり重きにおかれない。その点では現実的で自然な対処方法と言えよう。

出雲については近年、『古事記』を通じて、古代の世界で先住民族が大和朝廷と対立し戦って、『古事記』のあるような、国譲りが成立したのではと思われている。

前項に述べたように、荒神谷の遺跡の大発見によってより一層確実になりつつある。

※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。

 

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プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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