『歴史歳時記豆知識』11守護(しゅご)は?、

守護③守護②『歴史歳時記豆知識』11守護(しゅご)は?、日本鎌倉幕府室町幕府が置いた武家の職制で、単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代は守護人奉行といい、室町時代には守護職といった。制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。平安時代後期において、国内の治安維持などのために、国司が有力な在地武士を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられている。鎌倉期の守護の初見は、1180治承4年)10月の富士川の戦いの直後に、源頼朝甲斐源氏武田信義駿河守護、安田義定遠江守護に任じたとする『吾妻鏡1021日条である。この段階では頼朝の勢力は足柄以西には及んでいないため編者による曲筆と思われるが、頼朝の勢力圏である関東南部には早期に設置されていたと見られる[1]。その後、頼朝政権の勢力が西上するに従って、守護の設置は西国へと拡大していった。当時の守護はとも呼ばれ、国内の兵粮徴発や兵士動員などを主な任務としていた。梶原景時土肥実平播磨美作備前備中備後5ヶ国の惣追捕使に補任され(『吾妻鏡』元暦元年218日条)、源範頼軍と共に平氏追討に参加した。1185(元暦2年)に平氏が滅亡して追討が終了すると、頼朝は後白河法皇に諸国惣追捕使の停止を奏上している(『百錬抄619日条)。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
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