「温故知新」        川村一彦

歴史は語る。

『歴史の時々変遷』(全361回)26”長岡京遷都“ 「長岡京遷都」山城国乙訓郡(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区)にあった古代日本の都城

長岡45 『歴史の時変遷』(全361回)26”長岡京遷都“「長岡京遷都」山城国乙訓郡(現在の京都府向日市長岡京市京都市西京区)にあった古代日本の都城。宮域跡は向日市鶏冠井町に位置し、「長岡宮跡」として国の史跡に指定されている。延暦3年(7841111日に平城京から遷都され、延暦13年(7941022日に平安京に遷都されるまで機能した。長岡京は桓武天皇の勅命により、平城京から北へ40kmの長岡の地に遷都して造営され、平城京の地理的弱点を克服しようとした都市であった。長岡京の近くには桂川宇治川など、3本の大きな川が淀川となる合流点があった。全国からの物資を荷揚げする港「山崎津」を設け、ここで小さな船に積み替える。そこから川をさかのぼると直接、都の中に入ることができた。長岡京にはこうした川が3本流れ、船で効率よく物資を運ぶことができ、陸路を使わざるを得なかった平城京の問題を解消できた。発掘調査では、ほぼ各家に井戸が見つかっていることから、そこに住む人々も豊かな水の恩恵を受けていたと言える。平城京で問題となっていた下水にも対策が立てられた。道路脇の流れる水を家の中に引き込み、排泄物を流すようになっていた。長岡京の北西で湧いた豊かな水は、緩やかな斜面に作られた都の中を自然に南東へ流れ、これによって汚物は川へ押し流され、都は清潔さを保っていた。桓武天皇は自らの宮殿を街より15mほど高い地に築き、天皇の権威を目に見える形で示し、長岡京が天皇の都であることを強調した。桓武天皇は天武系とは異なる天智系の天皇であった。785の正月に宮殿で新年の儀式を行ったが、これは都の建築開始からわずか半年で宮殿が完成していたことを意味する。その宮殿建設では、反対勢力や遷都による奈良の人々への影響を意識した段取りをする。当時、宮殿の建設では元あった宮殿を解体して移築するのが一般的であったが、平城京から宮殿を移築するのではなく、難波宮の宮殿を移築した。また、遷都の際に桓武天皇は朝廷内の改革に取り組み、藤原種継とその一族を重用し、反対する勢力を遠ざけた。しかし、同年9月に造長岡宮使の種継が暗殺された。首謀者の中には、平城京の仏教勢力である東大寺に関わる役人も複数いた。そして桓武天皇の皇太弟早良親王もこの叛逆に与していたとされ幽閉・配流となり、親王は配流先に向かう途中、恨みを抱いたまま死去する。親王の死後、日照りによる飢饉・疫病の大流行や、皇后ら桓武天皇近親者の相次ぐ死去、伊勢神宮正殿の放火、皇太子の発病など様々な変事が起こったことから、その原因を陰陽師に占わせたところ、早良親王の怨霊に因るものとの結果が出て親王の御霊を鎮める儀式を行う。しかし、その直後と2ヵ月後の2度の大雨によって都の中を流れる川が氾濫し大きな被害を蒙ったことから、和気清麻呂の建議もあって遷都僅か10年後の794平安京へ遷都することになる。もっとも、789年の造営大工への叙位記事を最後に長岡京の工事に関する記録は姿を消しており、791年平城宮の諸門を解体して長岡宮に運ばせたものの、実際には平安宮にそのまま転用されている事から、延暦10年の段階で既に長岡京の廃止決定と新たな都の計画が進められていたと考えられている]★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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