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『鎌倉・室町の群像伝』九十八“北条時行”北条時行(?~1353)鎌倉時代末期から南北朝時代の武将である。鎌倉幕府最後の得宗北条高時

北条時行8 鎌倉・室町の群像伝』九十八“北条時行”北条時行(?~1353)鎌倉時代末期から南北朝時代武将である。鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児。鎌倉幕府残党を糾合して北条氏復興のため中先代の乱を引き起こし、一時鎌倉を奪還した。のち足利尊氏方に捕らえられ処刑されたとされる。幼名を亀寿丸という。母は安達時顕の娘・二位局。1333年、新田義貞による鎌倉攻めが行われ、執権北条高時を始め北条一族郎党は集団で自害し、鎌倉幕府は滅亡したが、時行は北条泰家の策によって諏訪盛高に連れられ鎌倉を脱出した。「太平記」には、1335年、逃亡潜伏していた北条泰家や旧幕府の関係者達、西園寺公宗らが北条氏の復興を図った際、旗頭として高時の忘れ形見である時行に白羽の矢が立てられ、泰家は諏訪盛高に亀寿丸を招致するよう命じた。盛高は二位局の元へ赴き、家臣に裏切られ処刑された邦時の話を持ち出して、「このままだと亀寿丸様もいつその首を手土産に我が身を朝廷に売り込もうと考える輩に狙われるか分かりませぬ」などと脅して二位局らを困惑させている隙に時行を強奪して連れ去ったと記載されている。その後二位局は悲観して入水自殺したともされる。時行は北条氏が代々世襲する守護国の一つであった信濃に移り、ここで諏訪家当主(大祝)である諏訪頼重に迎えられ、その元で育てられた。信州では得宗家被官であった諏訪神党などは冷遇され、代わって足利氏と懇意の小笠原氏が優遇されていた。時行は諏訪氏の勢力下、または中央の目の届き難い伊那谷地方にて潜伏・養育されていたとみられ、伊那地方には時行が住んだとされる遺跡や地所の伝承が多く残る。建武2年(13357月、成長した時行は、後醍醐天皇による親政に不満を持つ勢力や北条の残党を糾合し、信濃の諏訪頼重、時継親子や海野氏根津氏望月氏滋野氏滋野三家)らに擁立されて挙兵した。時行の挙兵に応じて各地の北条家残党、反親政勢力が呼応し、時行の下に集まり大軍となった。建武親政方の信濃守護小笠原貞宗と戦って撃破し、722日には武蔵国の女影原で待ち構えていた渋川義季岩松経家らの軍を破り、さらに小手指原で今川範満を、武蔵府中で下野国守護小山秀朝を、鶴見で佐竹義直を破り、破竹の勢いで鎌倉へと進軍した。尊氏の弟である鎌倉将軍府執権足利直義を町田村の井出の沢の合戦で破り、鎌倉へ迫ると足利直義らは鎌倉を放棄して足利氏所縁の三河国へ逃走。時行は父祖の地である鎌倉を奪回した。またこの際、鎌倉に幽閉されていた護良親王(大塔宮)は、時行に利用されることを恐れた直義方の手により殺害された。鎌倉を占拠した時行を鎮圧するべく、朝廷では誰を派遣すべきか議論が起こった。その武勇、実績、統率力、人望などを勘案して、足利尊氏が派遣されることとなった。直義と合流した尊氏は東進し、迎え撃つ時行軍と干戈を交えた。両軍は最初の内こそ拮抗していたが、徐々に時行軍の旗色が悪くなっていった。遠江国・駿河国・相模国など十七か所で局地的な合戦が幾度か起こったが、時行軍はそのたび破れ退却を余儀なくされた。ついには鎌倉にまで追い詰められ時行軍は壊滅。諏訪家当主の諏訪頼重・時継親子ら信濃の諾将四十余名は勝長寿院で自害した。この自害した者達の遺体は皆顔の皮を剥がれており、誰が誰だか判別不可能だったため、時行も諏訪親子と共に自害して果てたのだろうと判断されていた。

★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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