「温故知新」        川村一彦

歴史は語る。

『鎌倉・室町の群像伝』九十五”北畠親房“ 北畠親房(1293~1354)鎌倉末期から南北朝期の公卿。

北畠親房ン鎌倉・室町の群像伝』九十五”北畠親房“

北畠親房(1293~1354)鎌倉末期から南北朝期の公卿。中院流村上源氏。父は北畠師重、母は藤原隆重の女。正安二年(1300)兵部権大輔に任官。1308年従三位、左兵衛督、検非違使別当を歴任。1312年従弐位。1324年大納言となった。吉田定房、万里小路宜房とともに後醍醐天皇の親政を補佐して「後三房」と称された。天皇の厚い信任を受けて、第二皇子世良親王の養育にあたった。しかし1330年親王の夭逝により悲しみの内に出家し、宗玄と号した。1333年10月、建武政権の奥羽統治機関である奥将軍府の成立に伴い、長子北畠顕家と共に、義良親王に奉じて陸奥多賀城に赴き、東北の経営に当たった。1335年12月、足利尊氏が敗走する新田義貞軍を追って西上するや、そのあとを追って入京、、京中合戦を展開し足利軍を急襲に追放した。翌年5月、勢力挽回した足利尊氏の上洛で建武政治の崩壊した際、伊勢に赴き南朝勢力の扶植に努めた。1338年5月に和泉堺浦合戦で顕家を失った。東国における南軍を結集するために、同年9月、義良親王を奉じて次子北畠顕信と伊勢大湊から東国に向かって解纜したが、途中、暴風雨にあって船団は壊滅し、親房のみ常陸東条浦に漂着した。小田治久らの援助を受けて、神宮寺城、小田城、関、大宝城を転戦した。後醍醐天皇の死去の悲報を小田城中で聞いた。『神皇正統記』執筆しつつ、結城親朝らの南軍への結集を呼びかけたが効果がなかった。親朝が足利方として旗幟を鮮明にした1343年11月、関東を脱出して吉野に帰り、後村上天皇を補佐した。1352年室町幕府の虚を衝いて京都を奪還したものの、幕府側の反撃にあって京都を放棄し、遠くの賀名生へと敗走した。1354年失意のうちに生涯を閉じた。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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