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『歴史の時々変遷』10”近江遷都“ 近江遷都・近江宮は、飛鳥時代に天智天皇が近江国滋賀郡に営んだ都。

王ミスt『歴史の時変遷』10”近江遷都“

近江遷都・近江宮は、飛鳥時代天智天皇近江国滋賀郡に営んだ都。天智天皇6年(667飛鳥から近江に遷都した天皇はこの宮で正式に即位し、近江令庚午年籍など律令制の基礎となる施策を実行。天皇崩後に朝廷の首班となった大友皇子(弘文天皇)は天武天皇元年(672)の壬申の乱大海人皇子に敗れたため、5年余りで廃都となった。史料には、近江大津宮、大津宮、志賀の都とも呼称されるが、本来の表記は水海大津宮であったとの指摘がある1974昭和49年)以来の発掘調査で、滋賀県大津市錦織の住宅地で宮の一部遺構が確認され、「近江大津宮錦織遺跡」として国の史跡に指定されている。斉明天皇6年(660百済新羅に攻められて亡んだ。倭国にとって百済は同盟国であり、国外にある防波堤でもあったため、当時の倭国の政治指導者である中大兄皇子(後の天智天皇)は、百済復興を強力に支援しようと、朝鮮半島へ出兵した。しかし、天智天皇2年(663)の白村江の戦いにおいて倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍に惨敗し、百済復興は失敗に終わった。百済復興戦争の敗北は、中大兄政権にとって大変な失策であり、国外に大きな脅威を抱えることとなった。そのため、北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の朝鮮式山城や連絡施設を築くとともに、最前線の大宰府には水城という防衛施設を設置して、防備を固めた。このような状況下で、天智天皇6年(6673月19、中大兄皇子は都を近江大津へ移した。その翌年(6681月、称制実に7年にわたったが、中大兄皇子は即位して天智天皇となった。日本で最初の律令法典となる近江令が制定されたともいわれる。 なお、この遷都の理由はよく判っていないが、国外の脅威に対抗しうる政治体制を新たに構築するため、抵抗勢力の多い飛鳥から遠い大津を選んだとする説が有力である。また、大津を遷都先に選んだ理由については、対外関係上の危機感が強く働いていたと思われる。大津は琵琶湖に面しており、陸上・湖上に東山道陸道の諸国へ向かう交通路が通じており、西方へも交通の便が良いためとする説がある。日本書紀によるとこの遷都には民衆から大きな不満があり、昼夜を問わず出火があったという。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる

 

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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