『歴史の時々変遷』4”崇峻天皇の暗殺の謎“ 崇峻天皇の暗殺の謎・587年用明天皇の死後、


『歴史の時々変遷』4”崇峻天皇の暗殺の謎“
崇峻天皇の暗殺の謎・587年用明天皇の死後、故敏達天皇の皇后の豊御食炊屋姫と大臣蘇我馬子の推挙で、崇峻天皇の誕生となった。豊御食炊屋姫と馬子の協調は、炊屋姫が馬子の父である稲目の娘の堅塩姫を母としている。592年10月、猪が献上された際に、崇峻天皇が「いつになったらこの猪の首を斬るように、いやな男の首を斬ることが出来るだろうか」と言い、兵を増やし、また大伴の子手子妃が自分への崇峻の愛情が薄くなったことに不満を持って、馬子の告げ口したことの始まり、崇峻天皇と馬子が次第に離反したと言われている。馬子によって擁立された崇峻天皇も操り天皇に嫌気がさしたとしても不思議はない。危惧を抱いた馬子は密かに徒党を集めて崇峻天皇暗殺計画を練り上げた。東国の調が献上されたと偽り、東漢直駒に命じて天皇を暗殺させたのである。崇峻天皇は暗殺されるや、その日の内に倉橋岡陵に葬られたと言う。暗殺者東漢直駒は馬子の娘で天皇の妃と不義が発覚して殺された。馬子の魂胆は全て東漢直駒に罪を着せた終結させたようだ。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

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