『鎌倉・室町の群像伝』五十五”湛慶“ 湛慶(1117-1256) 鎌倉時代の慶派仏師。運慶のもうけた男子、次男康運、三男康弁、四男康勝

tannkei.jpg

『鎌倉・室町の群像伝』五十五”湛慶“
湛慶(1117-1256) 鎌倉時代の慶派仏師。運慶のもうけた男子、次男康運、三男康弁、四男康勝など皆、仏師になったが、なかでも嫡男の湛慶は、運慶、快慶とならぶ大家として知られる。ほぼ60年の長期に渡って活躍しているが、その活動はおよそ3つの期間に分けられる。第1期は貞応2年(1223)、快慶と共に醍醐寺閻魔堂の造仏をした頃までで、この年は運慶の没年にも当たる。この時期は、父・運慶や慶派の有力仏師と共同し、主に東大寺を中心とする奈良で活動した。建暦3年(1212)、41歳で最高の僧綱位である法印に叙せられるが、この頃は運慶や快慶も健在で、湛慶が表に立つことは少なかったようである。湛慶の作風は、運慶の力動感溢れる存在感と、快慶の絵画的な写実を調和した穏健な様式を作り上げたと評されるが、それはこの時期に培ったものだと考えられる。第2期は、貞応3年(1224)の平岡善妙寺の造像から、宝治2年(1248)の後嵯峨院のための造像のあたりで、新たな作風を作り上げるまで。この頃から死の直前の仕事まで、奈良では全く活動しておらず、慶派の主体が南都から離れたことが伺える。第2期の作「善膩師童子像」(雪蹊寺)や狛犬・仔犬(高山寺)には、無垢な愛らしさを表した、万物への慈しみと言う宗教的境地が感じられ、これは高山寺の明恵との交流の中で触発されて育まれたものと推察される。第3期は、東大寺講堂本像造立途中で亡くなるまで。この時期の京都・妙法院蓮華王院本堂(三十三間堂)本尊の千手観音の巨像は、銘文から、湛慶最晩年の82歳の時に完成したことが知られる。三十三間堂の本尊の左右に林立する千体(正確には1,001体)千手観音立像中にも湛慶作の銘をもつものが数体ある。ここでの湛慶は、復興事業という性格から慶派特有の強さは抑制し、静けさの中に洗練された平安後期彫刻の再現を目指したようだ。この千手観音像における幾分平板な面相や整った姿に、次代の仏像における平俗化、技巧化、あるいは形式化の予兆を指摘する意見もある。湛慶死後、大仏師職は甥の康円が継いだとみられる。弟子に信慶。
※歴史をたどれば、時代に

スポンサーサイト

コメント

非公開コメント