『戦後日本の あの日あの時』190「江田にビジョン」 昭和37年(1962)7月27日、社会党書記長江田三郎、党全国オルグ会議で「江田ビジョン」を発表

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『戦後日本の あの日あの時』190「江田にビジョン」
昭和37年(1962)7月27日、社会党書記長江田三郎、党全国オルグ会議で「江田ビジョン」を発表.(米の高い生活水準・ソ連の徹底した社会保証・英の議会民主主義・日本の平和憲法の4つの基盤にした新しい社会主義のイメージを打ち出す。)1946年に日本に引き揚げ、日本社会党に入党。左派の活動家として頭角を現す。1950年に参議院議員に初当選し、1951年の左右分裂後は左派社会党に属した。左派社会党時代、左派の日刊機関紙として「社会タイムス」を創刊し、自ら社会タイムス社の専務として経営に参画するが、経営陣がそろって経営の素人だった上に販売代金の回収がきちんと行なわれなかったことから、たちまち経営難に陥り、社会タイムス社は倒産した。この時、社会タイムス社の経営に引き入れた和田博雄が会社の借金の一部を背負う形となり、その後の和田との確執の原因になったと言われている[3]。1958年、委員長鈴木茂三郎のもとで社会党組織委員長となり、党組織の近代化や活動家の待遇改善に尽力し、若手活動家たちから絶大な信頼を得る。1960年には書記長に就任した。委員長浅沼稲次郎の暗殺事件後、委員長代行として1960年総選挙を指揮する。3党首テレビ討論会にも社会党代表として出演し、穏やかな口調が視聴者に好印象を与え、国民的な人気を得た。「江田ビジョン」と構造改革論。1960年総選挙の頃より、江田は構造改革論を社会党の路線の軸に据えようとした。これは、日本社会の改革を積み重ねることによって社会主義を実現しようとする穏健な考え方で、これまで権力獲得の過程が曖昧であった平和革命論を補強しようというものであった。しかし、労農派マルクス主義に拘泥する社会主義協会がこれに反発し、江田ら若手活動家たちの台頭を恐れた鈴木茂三郎・佐々木更三らも構造改革論反対を唱え始める。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる。
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