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「平安京物語」39“兼通・兼家の抗争”藤原兼通、平安時代中期の公卿。村上朝の実力者右大臣藤

兼通2
兼通1
「平安京物語」39“兼通・兼家の抗争”藤原兼通、平安時代中期の公卿。村上朝の実力者右大臣藤原師輔の次男に生まれる。天慶6年(943年)従五位下に叙爵。同9年(946年)周防権守に任ぜられる。天暦末に左近衛少将に遷り、春宮亮を兼ねる。康保4年(967年)蔵人頭となる。父によって入内させられた同母妹の安子(師輔の長女)が村上天皇からの寵愛深く受け、後に即位することになる憲平親王(冷泉天皇)、守平親王(円融天皇)を生んだことで、伊尹・兼通・兼家の兄弟は政治上極めて有利な立場にあった。ところが応和4年(964年)に突如、安子が急死してしまう。その際、最後まで彼女に付き添ったのは父の死後に彼女を支えた2人の「兄」である伊尹(参議)と兼通(中宮権大夫)であった。[2]なお、安子の「弟」であった兼家(左京大夫)はその場に立ち会えなかった。
康保4年(967年)、村上天皇が崩御し、冷泉天皇の即位とともに蔵人頭を弟の兼家と代わる。安和2年(969年)参議に補せられ従三位に叙されるが、弟の兼家の出世はこれを上回り、大納言に右近衛大将を兼ねていた。これは息子の正光が源高明の娘「中姫君」を娶っていたため[3]、安和の変の際に兄弟の中で唯一高明派とみなされて冷遇されたとする説がある。兼通はこれに失望して出仕を怠るようになる。冷泉天皇に次いで即位していた円融天皇も伯父の兼通を好まなかった。天禄2年(971年)長兄の伊尹は摂政太政大臣に昇る。翌天禄3年(972年)、兼通はようやく権中納言に進んだ。
天禄3年(972年)、長兄の伊尹が危篤になると、10月21日に辞意を示す上表を行った。それを知った兼通と兼家は次の日には早速天皇の御前で後任を巡って口論を始める有様であった(『済時記』)。23日には伊尹の摂政辞任だけは認められた。こうした状況の中で兼通はこれに乗ぜんと参内した。しかし鬼の間に居た円融天皇は、平素から疎んじていた兼通の姿を見ると別の間へ移ろうとした。そこで「奏上したき事があります」と言上し、天皇を座に留まらせた兼通は書を奉った。その手跡は天皇が幼い頃に亡くなった母后・安子のものであった。先に弟の兼家に摂関を奪われることを恐れていた兼通は、存命中だった妹の安子から「将来、摂関たることあれば、必ず兄弟の順序に従いなさい」との書付を受け、この書を懐に入れて肌身離さず持っていたという。それを見た天皇は亡き母の遺命に従うこととした。まず、兼通に10月27日に内覧を許し、伊尹の没後に権中納言から一挙に内大臣に引き上げて関白宣下した(なお、内覧から関白宣下を受けた時期については、この天禄3年説と2年後の天延2年(974年)説がある)。藤原済時は大納言を経ないで兼通が内大臣に就任したことやこの人事を行った円融天皇、更にはこれを止めなかった藤原頼忠を強く非難している(『済時記』)。天延2年(974年)には頼忠に代わって藤氏長者となり正二位に進め、太政大臣に任ぜられる。同3年(975年)従一位に叙された。貞元元年(976年)内裏で火事があり、天皇は兼通の堀川第に移り、時の人はこれを「今内裏」と呼んだ。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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