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「平安京物語」36“阿弥陀聖・市(いち)聖(ひじり)の空也(くうや)”朝廷や公家が

空也5
空や1
「平安京物語」36“阿弥陀聖・市(いち)聖(ひじり)の空也(くうや)”朝廷や公家が承平・天慶の乱に放浪されている間に民衆の中では市聖(市井)または阿弥陀聖の空也が注目を浴び慕い信望を集めていた。空也は延喜三年(903)生まれだが出自については詳しく解っていない。諸説があって醍醐天皇第五子の仁明天皇の皇子など皇胤説などがあって伝承は推測の域、二十歳の折り、尾張国の国分寺で出家をしたと言う。その後行基と同じような流浪行脚を播磨峰合寺や阿波・土佐間の湯島や経論や観音に修行を積み、諸国を更に陸奥、出羽の奥地まで布教し、また社会事業をとして、険阻な所に道を造り、架橋の無い所に橋を架け、井戸を掘って便を図り、荒野に遺棄された死骸を見れば一カ所に集め火葬し『阿弥陀仏』を唱え供養をした。各地を流浪行脚し民衆の中に入って説教をし、彼の事を市中廻り民衆に念仏を勧め廻ったので世人は阿弥陀聖、市聖とも呼んだ。天暦二年(948)比叡山の上がり延暦寺座主延昌から戒を受けた。その頃から空也を名乗るようになった。それからの空也の活動は既成仏教集団には入らず民衆布教活動を「聖」を続ける一方貴族社会にも教化活動を図り、空也は遊行の僧であって、寺院の奥深く座して安逸をむさぼる僧徒ではなかった。貴族や民衆から寄付を募って、金色の一丈の観音像、六尺の梵天・帝釈天・四天王の像を作っており、空也の民間布教では「空也上人の為に金字の大般若経を供養をする願文」によれば、空也は天暦四年(950)金字(金泥)の大般若経一部六百巻の書写を達成するために活動を開始、十四年間に及ぶ、願文は完成をした。応和三年(963)賀茂川の東岸の洪水で流され亡くなった人々の為に、西に宝塔を造り、六百人の高僧を招き供養を行なっている。
京に於いては左大臣藤原実頼以下多くの人々に結縁を結び、天禄元年(970)大納言藤原師氏の死に際し、閻魔王宮に送る牒状を書いたと伝える。
空也は貴族、民衆の隔たり無く仏の救いを布教し続けた。説話に空也が京都の民衆に深く尊敬されていたかを物語がある。一人の鍛冶工が金を懐に帰る時に空也に逢って言うに、日が暮れて路遠く不安で恐ろしい気がすると言った。そこで空也は阿弥陀仏を念じる様に教えた。鍛冶工は帰る途中に盗賊に遭ったので空也に言われた通り念仏を唱えた所、盗賊はこれは市聖に違いないと立ち去ったと言う。空也の布教の姿は特異なもので、口には南無阿弥陀仏の名号を唱え、仏像を背負い、錫杖をつき、金鼓をたたき。法螺を吹くものある。
空也の与えた影響はその後の念仏から、阿弥陀信仰、浄土宗に、一遍の踊念仏から、遊行へと引き継がれていった。天禄三年九月十一日、東山の西光寺で没した。享年七十歳だったと言う。これはもと空也が建立した寺で後の六波羅蜜寺と呼ばれている。
★空也(903~972)自称空也、出自については生前から皇統説の噂があるが不詳。二十歳余りで尾張の国分寺で自ら剃髪し空也と名乗った。
後に播磨峰合(はりまみねあい)寺や阿波・土佐間の湯島で経論や観音による修行を積み、諸国を舞わって陸奥、出羽の奥地まで布教したと言われている。
天慶元年(938)京都に現れ、東山西光寺(六波羅蜜寺)で没するまで市中に活動の場所とした。その後比叡山延暦寺で座主延昌に授戒し光勝の名を得たが終生、空也の名で過ごした。
空也の伝説は諸国に残り、空也の最も影響を受けた師は行基のよう生き方求めて社会事業、橋やため池、井戸を掘り、念仏を唱える流浪僧として布教行脚「阿弥陀仏」を進めて廻った。
また空也の装束は背に仏像を背負い、錫杖をつき、金鼓をたたき、法螺を吹くものであった。また後世、空也の影響を受けた流浪僧が一遍であった。その意味に於いては諸国行脚の思想は後々の高僧に引き継がれていった。
◆六波羅蜜寺は京都東山区轆轤(ろくろ)町にある真言宗の智山派の寺で西国三十三所第十七番札所。起源は平安中期、疫病祈願の為に天暦五年(951)空也が十一面観音像を刻んで安置したと言われている。一説に十三年掛かって完成した大般若経の書写供養を賀茂の河岸に小堂を建てた説と、もう一説応和年間に建てた説がある。空也の活動拠点がやがて寺院になって行った。その後空也の死後に衰退し、再興されて六波羅蜜寺になり天台別院にとして、法華経と念仏を行い、迎講・勧学会・地蔵講などが行われた。真言宗となったのは文禄四年(1595)の頃と思われている。
※平安時代には優雅な平安絵巻の様な王朝文化がある一面、人が集まる京都だが一歩筋を出れば田舎、地方と変わらない情景があったようだ。
疫病、飢餓で庶民は飢えていた時代でもあった。空也は諸国を行脚巡り布教を終えて戻った都でも餓死や疫病で疲弊する人々の救済に奔走し仏教の弥陀の救済を訴えた。
来世の極楽浄土は人々にある意味で安心を与えた。難しい修行や理屈を抜きにしてただ派手な装束に銅鑼(どら)の鐘をたたき、ほら貝を吹き、錫杖でじゃらじゃらと鳴らして農民や京の人々に「南無阿弥陀仏」の名号を唱えれば来世は約束される。また行基のように社会事業にも積極的に整備をした。


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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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