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「平安京物語」35“延喜・天暦の治”とは、平安時代中期(10世紀)

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「平安京物語」35“延喜・天暦の治”(えんぎ・てんりゃくのち)とは、平安時代中期(10世紀)の第60代醍醐、その皇子の第62代村上両天皇の治世を聖代視した呼称。延喜は醍醐の、天暦は村上の元号である。延喜の治および天暦の治も参照のこと。両治世は天皇親政が行われ、王朝政治・王朝文化の最盛期となった理想の時代として後世の人々に観念された。両治世を聖代視する考えは、早くも10世紀後半には現れており、11世紀前葉~中葉ごろの貴族社会に広く浸透した。当時は摂関家が政治の上層を独占する摂関政治が展開し、中流・下流貴族は特定の官職を世襲してそれ以上の昇進が望めない、といった家職の固定化が進んでいた。そうした中で、中流貴族も上層へある程度昇進していた延喜・天暦期を理想の治世とする考えが中下流貴族の間に広まったのである。実際には、延喜・天暦期は律令国家体制から王朝国家体制へ移行する過渡期に当たっており、様々な改革が展開した時期であり、それらの改革は天皇親政というよりも、徐々に形成しつつあった摂関政治によって支えられていた。しかし、後世の人々によって、延喜・天暦期の聖代視は意識的に喧伝されていき、平安後期には理想の政治像として定着した。後醍醐天皇も延喜・天暦期を天皇親政が行われた理想の時代と認識し、武家政治を排して建武の新政を展開した。江戸末期にも延喜・天暦の治を理想視する思想が明治維新の原動力の一つとなり、そうした考えは明治以降の皇国史観にも引き継がれた。第二次世界大戦後に研究が進むと、潜在的に不満を抱いていた中下流の文人貴族層による過大な評価であることが明らかとなり、またその時期の実際の政策も宇多天皇期及びその後の宇多上皇による事実上の院政下で行われたものの延長でしかないことが明らかになった[1]。また、摂関政治の前提である摂政・関白自体が延喜・天暦期には非常設の臨時の職に過ぎなかったことも明らかにされた。これによって、延喜・天暦期を特別に重視することなく、9世紀から11世紀までの期間を律令国家期から王朝国家期への移行期としてとらえる見解が通説となっている。
※醍醐天皇(だいごてんのう、元慶9年1月18日(885)- 延長8年9月29日(930))は、平安時代の第60代天皇(在位:寛平9年7月13日(897)- 延長8年9月22日(930))。臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源 維城といった。のち父の即位とともに皇族に列し親王宣下ののちに敦仁(あつぎみ・あつひと)に改めた。宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。元慶9年(885年)1月18日、臣籍に降下していた源定省の長男・源維城として生まれる。仁和3年(887年)、父の皇籍復帰と即位(宇多天皇)に伴い、皇族に列することになった。寛平元年12月28日(890年1月22日)親王宣下、同2年12月17日(891年1月30日)に敦仁に改名。同5年(893年)4月2日立太子。同9年(897年)7月3日に元服すると同日践祚、同月13日に即位。父帝の訓示「寛平御遺誡」を受けて藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せる。その治世は34年の長きにわたり、摂関を置かずに形式上は親政を行って数々の業績を収めたため、後代になってこの治世は「延喜の治」として謳われるようになった。しかし昌泰4年(901年)、時平の讒言を容れて菅原道真を大宰員外帥に左遷し昌泰の変は、聖代の瑕と評されることになった。近年ではこの事件は天皇と時平による宇多上皇の政治力排除のための行動だったと考えられている。また同じ年に時平の妹・藤原穏子が女御として入内しており、後に中宮に立っていることからも、この事件はそれまで宇多上皇が採ってきた藤原氏を抑制する政策の転換という側面があったとも考えられている。時平は荘園整理令の施行に尽力したことをはじめ、国史『日本三代実録』の完成や、律令制の基本法である延喜格式の撰修にも着手しており、むしろ政治には真摯で制度改革には意欲的だったことが知られている。「延喜の治」は形こそは摂関を置かない親政でも、実際には天皇と時平の提携による政治主導に帰するところが大きかったのである。
※村上天皇(むらかみてんのう、延長4年6月2日(926) - 康保4年5月25日(967)、は、平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年4月28日(946) - 康保4年5月25日(967)。第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経の娘中宮穏子。第61代朱雀天皇の同母弟。第十四皇子ながら、母が中宮であるため重んじられ、誕生の同年11月親王宣下。天慶3年(940年)2月、元服。三品に叙され、上野太守、大宰帥を経る。天慶7年(944年)4月22日に皇太子(皇太弟)となり、同9年4月20日に朱雀天皇の譲位により践祚、同月28日に即位。先代に続いて天皇の外叔父藤原忠平が関白を務めたが、天暦3年(949年)に忠平が死去するとそれ以後は摂関を置かず、延喜時代とともに親政の典範とされた。しかし実際には政治の実権は依然摂関家の藤原実頼・師輔兄弟にあり、初期には母の穏子や兄の朱雀上皇も後見を理由に政治に関与しようとしたため、彼の親政は名目にすぎなかった。平将門・藤原純友の起こした承平天慶の乱(935年 - 940年)の後、朝廷の財政が逼迫していたので倹約に努め物価を安定させた。文治面では、天暦5年(951年)に『後撰集』の編纂を下命したり、天徳4年(960年)3月に内裏歌合を催行し、歌人としても歌壇の庇護者としても後世に評価される。また『清涼記』の著者と伝えられ、琴や琵琶などの楽器にも精通し、平安文化を開花させた天皇といえる。天皇の治績は「天暦の治」として後世景仰された。しかしその反面、この時代に外戚政治の土台が一段と固められ、吏治にも公正さが失われた。また天徳4年の内裏焼亡をはじめとする数々の災難もあった。康保4年(967年)5月25日、在位のまま42歳で崩御。この村上天皇の後、儒教に依拠する天皇号を廃し、安徳天皇と後醍醐天皇を例外として歴代の天皇は院号をもって呼ばれるようになった。再び天皇号が復活するのは約900年後、江戸時代後期の光格天皇になってからのことである。なお皇子具平親王の裔は「村上源氏」として、以後の宮廷政治において大きな影響力を持つようになる。



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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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