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「平安京物語」29“時平と道真”関白基経が死去

時平4
時平1
「平安京物語」29“時平(ときひら)と道(みち)真(ざね)”関白(かんぱく)基経(もとつね)が死去(しきょ)し宮廷内(きゅうていない)はある種の鬱積(うっせき)から解放され、若い宇多天皇は何も発言できず、内心親政を望み天皇の政治上の権限が復活をした。
皇継に女御胤子との間に生まれた敦仁親王を定め、基経の直系から外れ、基経の従兄の藤原高藤にあたる。基経の子の時平を参議の座に据え同時に仁明の孫の源興基を据え同様に起用した。中納言以上の布陣としては左大臣に源融(とおる)(72歳)右大臣に藤原良世(72歳)大納言に源能有(50歳)中納言に源光(48歳)同藤原諸葛(もろかつ)(68歳)同藤原時平(23歳)の均衡(きんこう)のとれた朝廷人事であった。菅原道真845年生まれで、早くからその才能は発揮され、その台頭はその出自にあった。祖父三代儒官として重きを成し、基礎を築いていた祖父清公以来菅家を名実ともに確立をした人物である。
正室は父の門人の島田忠臣の娘宣来子である。十一歳にして漢詩を読み、十五歳に元服。その後文章業生方略試の中上で及第し正六位上に叙せられた。
父是善は貞観十四年(872)道真が二十八歳、少内記の時に参議に加えられている。道真も少内記に叙せられ、五位下になり文人としては異例の栄達をした。ついに兵部・民部・式部・各少輔を経て元慶元年(874)に文章博士になった。
多くの願文を草文し活躍し藤原(ふじわら)良房(よしふさ)、基経(もときょう)とも親交も深く仁和二年(886)には国守として讃岐に赴任をした。二年後帰京し「阿衡(あこう)事件(じけん)」で調停し努力し、これまで家柄に応じた職に就いていた道真は、宇多天皇に信任を得た。
宇多天皇は摂関家には内心快く思ってはおらず、菅原道真の起用は摂関家に牽制をするが上にも都合の良い存在であった。
その後基経の死後、蔵人に、894年には遣唐大使に任ぜられたが国情により停止された。一説よれば道真の建議によって停止が進められたと言う。
『日本(にほん)三代(さんだい)実録(じつろく)』の編纂をし、多くの国の重要な国史や記述の編纂に参画した。また中納言に昇格し民部卿になり、長女の衍子を入内させ、右大臣に就任をした。道真の右大臣就任に三善清行反発もあって辞任の勧めもあったらしい。その要因に宇多天皇の道真寵愛が少なからず宮廷にあった。
延喜元年(901)道真を廻る形勢は逆転し、時平は大納言源光を味方に引き入れて、天皇に対して道真追放の工作を開始をした。
道真は天皇を廃し、弟帝で自分の娘婿である斎世親王を皇位に付けようとしておりますと告口をし、宇多法皇も同意をしていると言った。
時平は年少の天皇の不安を掴み巧みに自分の言い分の正しさを進言した。直ちに天皇は道真の陰謀と判断を下したが、しかもこの時には宇多法王に事の次第を正そうとはしなかった。
すぐさま天皇は詔を出して道真に非難を加え、大宰府権師とした。同時に源光を右大臣に任じ、定国に道真が兼任をしていた右近衛大将を兼務させた。
全て時平一味の企ては成功し、道真を助けるべく宇多法王は天皇に会う為に皇居に赴いたが門は閉ざされ、官人以下衛士に阻止させられた。
宮中から宇多法王が引き上げた日に道真は護衛を付けられ大宰府への旅路に着いた。
大宰府に流された道真の怨念か、次々に都に起こる不吉な出来事に都人は恐れおののき、呵責(かしゃく)の年に際悩ませることになるのである。
*菅原道真の出生地については、奈良市にある喜光寺の寺伝によれば、奈良市は菅原町周辺で生まれた説。
*京都市下京区、菅大臣神社説。
*京都市上京区、菅原院天満宮説。*奈良吉野、菅生寺説。
*島根県松江市、菅原天満宮説。
こう言った菅原道真の出生については、行った事ない島根県まで多様に伝説が生まれている。
★菅原道真(すがはらみちざね)(845~903)公卿・文人・父は是(これ)善(よし)、母は伴氏。文章家(もんじょうけ)としての基礎を築いたのは祖父清公以来、菅家を名実ともに確立した人物である。
十一歳で初めて漢詩を学び、日夜がくぎょうに勤しんだと言われている。十五歳で元服し十八歳で文章試に及第し、二十二歳にして文章(ぶんしょう)得業生(とくぎょうせい)、その後少内記など文人にしては異例の昇進を重ね、兵部・民部・式部の各少輔をへて三十二歳にして文章博士になった。
また多くの願文を草案し活躍した。その間藤原良房・基経親子とも親交を深め、四十二歳にして讃岐に国守として赴任した。この間に起こった阿衡事件で調停し宇多天皇に信任を得て、宇多天皇の下で蔵人頭になり、その後は『日本三代実録』の編纂に加わり、遣唐使についての進止について議定を奏言し、停止が決まり、入唐はしなかった。長女衍子を入内させ、自ら正三位になった。その直後、讒言によって、藤原時平の手によって大宰府権に左遷させられた。
★藤原(ふじわら)時平(ときひら)(871~909)藤原北家基経の長子。母は仁明天皇の皇女。右近衛権中将・蔵人頭・参議と血筋の良さで昇進、基経没後、宇多天皇の親政が進められ、菅原道真が重用されが、三人の関係は比較的平穏、その後中納言・右大将などを務め宇多天皇が譲位した時には醍醐天皇に与えた訓戒には、道真と時平に信頼をおくべし、左大臣時平、右大臣道真の頃は多少の対立はあったらしい。
延喜元年(901)天皇廃止の企ての疑惑に寄り、菅原道真は大宰府権に左遷せられた。この道真・時平の対立ばかりが強調され政策は課題に載らないが荘園整理令など一連の新制を行なった。また『日本三代実録』の撰上の貢献は大きい。三十九歳で没した。
◆「阿衡事件」*平安初期の事件藤原基経を廻る政治事件。「阿衡の紛議」とも言われ、宇多天皇の即位に伴い仁和三年(887)基経に出された関白の任命について、基経の辞退の上表に対する勅答(ちょくとう)があった。
「よろしく阿衡の任を持って卿(けい)の任と成すべき」と言う文言について「阿衡」は実権のない名誉的な地位を意味するとして基経は政務を行なわず渋滞し、翌年に改めて勅書を出し直すことによって正常に戻った。
この事件の背後には勅書の起草者、橘広相と藤原佐保世とも対立があった。結果天皇が折れて臣に従ったと藤原家の驕りに嘆いた言葉が残されている。
“朕遂に志を得ず、枉(ま)げて大臣に随う”この天皇と藤原氏の関係で道真が基経を諌めた手紙は文章家の実態を知るが上に重要である。
◆『日本三代実録』日本六国史の最期の史書。史書『三代実録』とも云う。藤原時平・大蔵善行により五〇巻。清和・陽成・光孝天皇の実績を叙述。
※菅原道真の大宰府左遷の秘話・伝説・説話は増幅拡大し、諸国にその伝説は点在する。一公卿で大臣の失脚に日本に後世にこれほど大きな影響と説話を残した人物は他にはいない。それだけ日本人に愛され共感を持たれている。
当時の朝廷内でも異常な事態で策略によって大宰府に流されたことに理不尽を感じていたのだろ。その後陰陽道や末法思想と相まって京都に不吉な出来事が続き、祟り、怨念と恐れ萎縮していき、魂を鎮めるべく神社を建立し、また道真の聡明さに「あやかりたい」学徳の功徳を受けたい心情が道真信仰に広まって行った。
悪役にされた藤原時平も『日本三代実録』の編纂作成に寄与している。三十九歳と言う若さで早世しているものあまり知られていない。



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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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